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阪急電車は走り続ける。

2007/01/31 04:16
画像藤白台を望む古江公園。ここは阪急電車の線路が目の前を通り、高低差が少ないので電車観察にもってこいの場所です。昔から鉄道関係の雑誌には、この公園から撮られた写真が出ることがよくあり、「隠れた名撮影地」と言えるかも…?

阪急電車が南千里(当初の名前は「新千里山」)から北千里まで開業したのは、1967年3月1日。んん?そうです!あと1ヵ月で満40年ということ!イエェ〜イ!

そして北千里駅といえば日本で最初に自動改札機が設置された駅としても有名。これは駅開業と同時でしたから…2007年3月1日は、北千里で日本初の自動改札機が誕生して満40年!!イエェ〜イ!!パチパチパチ!

その日私は小学校一年生でしたが、忘れもしません、担任の先生がウレシソーに自分の新しい定期券(自動化機対応のパンチ穴があいたやつ)を見せて、「みなさ〜ん!きょうは何の日だか知っていますか?そうですね、みんなの町にも電車が来ました!」と高らかに宣言しました。ひょっこりひょうたん島のサンデー先生みたいな先生だったな。そのあと皆で駅まで見学に行って、自動改札をゾロゾロ出たり入ったりしました。自分の町に待ちに待った電車の線路が来ただけでもうれしいのに、それが日本初のカッチョイイ「全自動化駅」だったんですからウレシーのなんのって…。藤白台を回るバスはそれまで新千里山駅が始発でしたが、この日から北千里始発に変わりました。「千里山線」が「千里線」になったのも、この日から。未来が始まった日でした。

自動改札機開発のストーリーは、2001年にはNHKの番組「プロジェクトX」にもなりました。(リンク先のDVDジャケットの写真は北千里駅!このサイトでは「世界初」とさえ書いてありますね。)

そして40年。今の北千里駅には、この駅がそんな晴れがましい歴史を秘めていたことを示すものは何もありません。プレートの一枚ぐらい、住民が寄付してもいいと思うのですが…。未来を信じて住民も協力したから、日本に自動改札機は定着したんですから。ちょっと大げさなようだけどホントにそうですよ。

阪急電車は、ただ淡々と、きょうも滑るように、北千里から山田までのゆるやかな下り勾配のロングレールを走っていくのでした。(本当にこの区間の乗り心地は素晴らしいです。)
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いきなりシモキタ

2007/01/30 03:15
画像突然ですが私が東京にいたころ暮らしていた世田谷・下北沢の町です。駅のホームの端から踏切ごしに撮った写真でゴチャゴチャしてますが…本物の下北沢は、もっとゴチャゴチャしています!

この町には3つの顔があって、
1.井の頭線と小田急線の乗換駅・サブターミナルとしての下北沢。2.若者の町としてのシモキタ。3.世田谷の住宅街としての北沢(正式な町名はこれ)。…これらが渾然一体となって、混沌とした魅力になっているのが特長です。

2.の「若者の町」としてが一番有名なようですが、元はと言えば大正末〜昭和初期、関東大震災後の山の手への人口移動とともに宅地化したのが始まり。第一世代だった当時の新婚さんは…いまご存命なら100歳ぐらいということになりますが、僕が住み始めた1984年ごろには、まだ80歳前後で、大家さんのおばあちゃんがそうでした。家賃を払いに行くと「私が嫁に来た頃は笹塚の駅までずっと雑木林で…」と話を聞かされたものです。

そんな三世代家族の庭がアパートになり…そこに住んでた若者の一人が僕。そういうお宅はけっこうあったのですが、結果、子供から若者から中年からお年寄りまで、オール世代共生のオープンマインドな街になっていたのが好きなところでした。オシャレなお店もあるけれど、破れたジーンズにツッカケでもOKな雰囲気。…もちろん雑然としてましたし、道が狭くて火事には本当に要注意でしたが…一度は戦後の闇市がそのまま残った駅前市場が朝方ボヤを出し、消防車は小田急線の「開かずの踏切」で向こうに渡れず、消防車がモタモタしてるうちに市場の隣のピーコックの消防団が火を消し止めた…という騒ぎもありました。ご近所の輪ってやつですよね。

…と書いてくると、千里NTにないものを求めていたような気もしますが、千里ももっと若者を広い心で受け入れて、多様性のある街になるといいなあと。そう思うんですよね。アパートの窓をあけたまま目覚まし代わりに大音量で音楽かけて、申し訳ないことしたなあと思いますが…

僕に二番目のふるさとがあるとしたら、それは下北沢です。千里は外から来た若者の「二番目のふるさと」になれているでしょうか?
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8ミリフィルムが語る光景

2007/01/29 01:47
画像千里NTのドキュメンタリー映画を撮りたいという学生さんに乞われて、友人の父上が撮った1965-70年の千里ニュータウンの8ミリフィルムを特別に上映していただきました。(8ミリビデオじゃないよ!)

写真は青山台から古江台越しに遠望した1970年の万博会場。闇の中に昔の未来都市が浮かび上がります。20代の学生さんには(映像のことを勉強していても)「8ミリフィルム」は珍しいようで、「ここまで古い機械は見たことないです…」だって。1960-80年代前半あたりまで、どこの家庭にもあった…はちょっと大げさだけど、決して珍しいフォーマットではなかったのですが…。

千里NTのお宅の押入れには、膨大な量の素人8ミリフィルムが眠っているはず。そこに映ってるのはなんでもない当時の日常だろうと思いますが、だからこそ今、貴重な生活記録です。万博のパビリオンが見える外の景色も、家具が少ない家の中も、洗濯物が満艦飾のベランダも、ノースリーブの夏服も、あの頃に一般化したファストフードの紙コップさえ、貴重な「時代の証言」です。

実は今回の上映も、(かなり念入りに保管・手入れされていたにもかかわらず)フィルムと機械が劣化していて、途中でシャフトが折れて手で押さえながら何とか最後まで見せていただきました。フィルムは半年前に一度見せていただいてから、外気に触れたせいか急速に劣化が進んだようです。

ああ!ニュータウンが映った8ミリフィルムを集めて、デジタル化して皆で共有して見られるような仕組みを博物館あたりでやってもらえないものか…?わずか半年間で劣化したフィルムとシャフトが折れた上映機を見て、これは時間との闘いだなと感じました。NTは建替が進みつつあるという意味でも、いま集めとかないと引越しで処分するおうちもあるでしょう。フィルムって、上映機が動かなくなると見られなくなっちゃいますから。

ちなみに37年前の万博会場。やっぱりトンデモナイ量の人が来たんだな〜と、人ゴミにあらためて感嘆してしまいました。今の万博公園の鳥に見せてやりたかったですよ。
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モッタイナーイ!

2007/01/28 21:27
画像きのう土曜日は、大阪大学が主催する「大学のあるまちづくりシンポジウム」ってのが千里中央であって行ってきました。

千里ニュータウンのすぐ隣には大阪大学の吹田キャンパスがあるわけですが、ここでは数年前から、建築・都市計画・まちづくりをやっている人たちを中心に、大学院生と社会人が一緒に学ぶ「リノベーションまちづくりデザイナー養成講座」っていうコースを始めています。その卒業発表。+千葉海浜ニュータウンと多摩ニュータウンからもゲストスピーカーが来られました。

ニュータウンヲタクにはたまらない催しですね!(そんなヲタクのジャンルがあるのか…?)

千里NTを仮想の練習台にして、若い学生たちが発表するイロイロ斬新なプラン、アイデアのかずかず…。ああそれなのにそれなのに…

阪大に一番近い目の前の「門前町」=藤白台の人たちは、阪大の人たちがこんな発表をしていることを、ほっとんど知らないのです!これを「モッタイナーイ!」と言わずして何と言おう?

超高齢化していると言っていい藤白台の中を、若い集団である阪大や金蘭の学生さんはただ足早に通り過ぎていくだけなのです。まるで「僕ら迷惑はかけませんから…」とでも言うように…。これを「モッタイナーイ!」と言わずして何と言おう?

金蘭が藤白台にできたのは、ほぼまちびらきと同時。阪大の吹田キャンパスが最初にオープンしたのは1968年。40年も昔から藤白台の中と隣には2つの大学(短大)があったのに、住民と学生の交流は、ほとんど積極的ではなかったと言わざるを得ません。

ちゃんと交流すれば、今や高齢化した藤白台は、学生たちから活力や新しい発想を貰えるし、学生たちは「机上の空論」ではなくリアリティにもとづいた実地の勉強ができるはず。なのになんだかそうなってないのです。

阪大も「国立大学法人化」という時代の変化もあって、数年前からはこんなコースを始め、住民に向けて発表の機会も作っているわけですが…藤白台ではちっとも知られてない。これを「モッタイナーイ!」と言わずして何と言おう?

…きょうは少し熱くなってしまいました。でもホントにモッタイナイ。

住民のほうも、大学との「つきあいかた」を学び直さないといけないんでしょうね。「学生は夜まで騒ぐ」とか「ゴミを捨てられる」とか…まあ一部にはそういう事実もあるでしょうけれど…うちも通学路には面していて時々ゴミ拾ってますが…プラスの面も見ないと、ホントにモッタイナーイ!
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藤白台にないものは…

2007/01/27 03:08
画像答えの一つはUR都市機構(旧住宅公団)の団地。千里ニュータウンでは「C」の記号が棟についています。

この写真はお隣の青山台。ここにはCが74棟もあります。一昨年〜昨年にはきれいにリペイントされ、当面は建て替えない方針でいくそうです。全戸南面並行配置で、入口はほとんどが北側にあり、ひときわさっぱりと規格化された棟配置になっています。ところどころにこのような階段一列の棟が混ぜられ、団地のアクセントになっています。全戸角部屋!通風と採光はバツグンです。
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佐竹台の挑戦

2007/01/26 03:47
画像同じ千里ニュータウンの中、南千里の「佐竹台(さたけだい)」。ここで始まっていた公社賃貸住宅建替の第一陣が、ようやく全容を現しました。

佐竹台は日本で最初のニュータウン、千里の中でも最初に入居が始まった町(1962年)ですから、「日本で最初のニュータウンの町」と言えます。かつてパイオニアだった町は建替でもパイオニアになる運命にあるわけです。

40年以上皆が住み慣れた建物を何百世帯という単位でやり替えるのですから、そこには大変な決意がいりますし、住み続ける住民の方には、場合によっては2回の引越しが必要になります。千里ニュータウンの団地の建替はあちらこちらで進行していますが、分譲でも賃貸でも葛藤は大きく、話がまとまるまで10年かかったというところも…。

それでも佐竹台の方は根気よく話し合いを続け、町の変化をより良い方向にするため、合意を作っていかれたと聞いています。

左が建替後、右が建替前。今だけ見られるツーショットのシーンですが、新しい建物は丈も高くて肉厚で、
「おう、オヤジ、小遣いくれよぅ〜」
「ったく、カサ高いなあ、もう!」
…みたいな親子の会話が聞こえてきそうですね…。

追って藤白台でも、公社住宅の建替が今年から始まろうとしています。

(写真右の佐竹台A9棟102号室は、昨年の吹田市立博物館「千里ニュータウン展」で、1960年代のくらしをまるごと再現した「サテライト展示会場」になり、大勢の方が見学に来られました。)
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はてしない意志

2007/01/25 23:59
画像突然ですが神戸の明石海峡大橋(1998年開通)。高速道路からは見ることがない、橋の真下・淡路側からのアングルです(ここは一般道ぞいの公園で誰でも入れます)。

海にまっすぐ突き出した、巨大な鉄の構造物。僕が子供だった40年以上前から「夢の架け橋」と呼ばれ、やはり「夢の超特急」と呼ばれた新幹線と対をなす巨大プロジェクトでした。大人になってわかることは「夢の架け橋」も「夢の超特急」も「巨費を投じてそんなことを…」という批判もまた強かったということなのですが、この光景を実際に見ると、ただ圧倒され、「はてしない意志」や「人類の叡智」というものを感じないわけにはいきません。

本四架橋が「悲願」となった背景には、嵐の海で大勢の修学旅行生が亡くなった「紫雲丸事故」(1955年)といった悲しい事実もありました。

千里ニュータウンもまた、「夢の架け橋」も「夢の超特急」と同じ時代に始まった「夢の計画都市」でした。この町を作った人たちの胸にも、やはり「はてしない意志」があったからこそ、1160haもの新都市をつくることができたのではないか?そんな「時代の精神」を感じさせられました。
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50階建てただいま更地

2007/01/24 01:09
画像きょうはほんとに千里中央。正月に見た光景です。

千里ニュータウンで一番高いビルになる50階建てのマンションを再開発で建設中ですが、お正月で重機もいっぷく…といったところ。今しか見られない構図ですね。来年の今頃はどんな風景に変わっているやら?
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夕焼けつながり

2007/01/23 01:13
画像
千里中央のライフサイエンスセンタービル…っていうのはウソで、多摩センターで見た朝日生命のビルのシルエット。右下にはモノレールの駅があります。

ニュータウンの景色にはモノレールがよく似合う。ビルと樹木ののびのびとしたシルエットや、広い空や…やはり「ニュータウン」の風景にはどこかしら共通点があるようです。
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夕映えギラリ

2007/01/22 02:44
画像藤白台五丁目の国立循環器病センター。日本でも数少ない高度専門機能病院です。

南南西に向いて建っているため、天気がいい夕方には窓がギラリと輝く数分間があります。
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消しゴム持った?

2007/01/21 04:23
画像1/20・21の両日は大学入試センター試験。藤白台とその近辺では2つの大学が試験会場になり、駅からの「藤白橋」にも案内看板が取り付けられました。

いや〜、自分の入試って、もう何年前だったろ?ゲンエキの年は国立一期校・二期校があった最後の年で、イチロウの年が入試センター試験の前身の「共通一次」最初の年でしたが…って言ってわかるあなたは40代後半!マークシート第一世代でもありましたね。落ちまくってたゲンエキ入試の春はキャンディーズの「微笑がえし」をめちゃくちゃブルーな気分で聴いてましたが…

いま大学入試問題を解く自信は全くありませんが、消しゴムを忘れないように、鉛筆が机から転がり落ちないように祈るばかりでございます。
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コンクリートの街は「ふるさと」になれるか?

2007/01/20 12:30
画像写真は神戸東部新都心として海沿いの工場跡地を再開発したHAT神戸です。計画居住人口は3万人とやや小振りですが、一種の「海のニュータウン」と言ってもいいでしょう。王子公園から移転してきた兵庫県立美術館人と防災未来センターなどもあります。

またこの町は、震災後、家を失った人たちのための「震災復興住宅」が組み込まれています。広くてオシャレな歩道、電柱埋設など整理された景観、モダンでバリアフリーの集合住宅、海の香り…と、都市計画の成果が十二分に生かされた町ですが…一人暮らしも多いお年寄りにとっては、住み慣れてきた町とずいぶん違ったつくりになってしまったことでしょう。決して拙速に造った町ではないけれど、短期間に大量の住宅供給の必要が発生し、質と量の両立を試みた点でも、災害復興住宅と高度成長下のニュータウンは似た一面があるかもしれません。

このようなコンクリートの街が「ふるさと」になれるか?…という問いに対して、千里NT育ちとしては力強くYESと答えたいところですが、40年前の千里NT住民と違うのは、入居住民の多くが転居の時点ですでに高齢化しているということです。40年かかって「ふるさと」になるのではなく、数年で「ふるさと」と呼べるよすがだけでも築くことができるかどうか?

大切なのは、やはりソフトにどこまでハートを込められるか?ということでしょう。町はハードを建設して終わり、ではなく、ここからがスタートなんだということを、全国のニュータウンとつきあってきた人たちならわかっているはずです。
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目の前の人しか助けられない。

2007/01/19 02:13
画像写真は震災前の1993年、芦屋ロックガーデン・風吹岩からの風景です。「被災地」と呼ばれることになる運命を、まだ誰も知りません。

自治会でもNPOでも「まちづくり」に関わっている人に伺うと、震災をきっかけに地域の絆を深めておかないといけないと感じたと、やはり関西ではそういう話をよく聞きます。このままではいけないんじゃないか、隣に住んでる人の顔と名前も知らないようでは、イザという時にマズイのではないか…「震災は価値観を変えたか?」という問いはよくあって、私自身などはヤキソバのウズラの卵を先に食べるようになったことぐらいしか思い当たらないのですが、たしかに「町への思い」をためらってる場合じゃないと多くの人に思わせた変化はあったのかもしれません。

何かあったとき、目の前の人しか助けられない。…それも本当は「目の前にいてさえ助けられない」こともたくさんあったのですが、少なくとも遠くにいては直接的には何もできない。ならば近所にいる人たちを、やっぱり大切にしないといけないのではないか?用はなくてもふだんから挨拶ぐらいはしておこうよと。

震災→ボランティア→NPOの法整備→高齢化の進行→ITネットワークの普及→団塊の大量定年→地域へのリターン…という流れが、たしかにこの12年間あったのだと思います。1995年、私は年男の36歳で、今年また年男で、次の年男では還暦になっちゃうじゃないか!どーするよ?「ひとまわり」は人生において十分長い。でもそれだけ、人々の意識も着実に「進化」したのだと、この12年間をふりかえって思います。

2007年の今も、風吹岩から見下ろす景色は何も変わらないように見えるのでしょうね。
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なぜブロック塀は危ないのか?

2007/01/18 01:56
画像震災の話題を続けます。

「ブロック塀は危ない」と言われますが、なぜでしょうか?もちろん崩れやすいからなのですが、特にブロック塀は、全体が一枚の板チョコを倒すような格好でパタンと倒れるからだ…ということが、実際に見てよくわかりました。そんな時たまたま横にいたら、塀全体の重さを受け止めきれるはずがありません。古いレンガ塀が崩れているのも見ましたが、レンガは全体がその場に「崩れ落ちる」ような格好で、ブロック塀が「倒れる」のとは全く違うようでした。

あと危ないと思ったのは写真のような大谷石の塀や門柱。ひとカタマリが大きいため、横にいたらカタマリひとつで本当に下敷きになりかねません。(千里の造園でも大谷石はけっこう使われています。ある時期、流行ったんですね。)

安全度が高いのは生垣や軽量のフェンス。植わっている木というものは本当に強い。電柱などはガタガタになっていても、街路樹は激しい揺れに揺さぶられても、(倒壊した建物がのしかかってきたら別ですが)傾いたりしないでしっかり立っていたようです。自然というものは、したたかです。

…この大谷石に直撃されて愛車がボコボコになったのですが、あの大惨事の中では被害のうちにも入らないと言うべきでしょうね…はじめて買ったクルマだったんだけど…
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決して家具が倒れる場所に寝ないでください。

2007/01/17 03:37
画像
震災12年。大変おはずかしいのですが、芦屋で被災した私の部屋…震災当日午後1時半の状況をお目にかけます。だいぶん片付けたあとの写真です。

建物自体は「一部損壊」ですみましたが、部屋の中の家具類(本棚、食器戸棚)は、全部倒れました。離れた場所に寝ていたので幸いにもケガ一つしませんでしたが…。キッチンの吊り戸棚は激しく開閉し、中の食器類は全部飛び出して落下しました。割れたガラスと陶器類が散乱し、家の中で靴を履いたまま何とか足の踏み場を確保して、奥の玄関の黒いビニール袋にまとめたのが見えていますね。余震でドア枠がゆがんで開かなくなることを恐れて、真冬に開けっ放しにしています。倒れた本棚も立てると余震でまた倒れるかもしれませんから、解体して部屋の隅に横たえてあります。

私が会う人ごとに言うのは決して家具が倒れる場所に寝るな!」ということです。建物が崩れなくても、部屋の中が安全である保証はどこにもありません。地震は1日24時間のどの時間に来るかわからないのですから、自分が一番長くいる場所から安全にしていくことが確率論的にも正しいのです。…それは…寝ている場所ですよね。

「あんな大地震が来たら何をやってもムダ」と思うのは大間違いです。自分の長くいる居場所から危険を取り除いていくこと。家具の配置に工夫して、頭より高い場所に重い物を収納しないこと。背の高い家具は倒れ止めをすること…あなた自身とご家族のために、できることはたくさんあります。

(こんな状況でも、ガラスの破片と陶器の破片は一緒に捨てていいのか?とか気になるんですよね。人間はおかしなものです。)
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未来都市の入口2

2007/01/16 00:59
画像千里ニュータウンの表札とも言うべき、町の入口の標柱。1/7の記事で千里一号線(千里南通とも千里ぎんなん通りとも…)の高野台にある標柱をご紹介しましたが、てつさんにコメントで教えていただいて千里中央線(千里中央筋とも吹田箕面線とも千里さくら通りとも…)南端の桃山台四丁目にある標柱を見てきました!

…こちらも松林の中ですが、高野台のよりは、はるかに見やすい(ちゃんとNT外から来てドライバー側の道の左側に立ってるし)。基本デザインは同じですが背の高さはこちらのほうが低いですね。それと三角の切れ込みが左右逆だな。

千里山西から南千里にいたるこのルートも、新御堂筋ができるまでは大阪市内からクルマで千里NTに入るメインルートでした。狭くて急坂があって途中何度も曲がってて、前のクルマについてかないとすぐに迷ってしまいそうな難路ですが…。阪急電車が千里山どまりだった頃は、この道を通って千里山〜一本松(現南千里)〜七尾〜国鉄吹田駅前を結ぶバスが、NT住民の唯一の足だったとか。「陸の孤島」なんてよく言われましたが、決して大げさではありませんでした。

何より、三輪トラックなどに荷物を積み込んだ引越しの人たちが、ガタガタ道を揺られ揺られてホコリを上げながら「NEW TOWN」に入って来た道でもありました。

千里二号線(千里東筋とも千里けやき通りとも…)の北端、藤白台と箕面市今宮の境界にも標柱があったような気がして、探しに行きましたがどうしても見つかりませんでした。撤去されちゃったのかな?

あとは新御堂筋の桃山台南側には、たしかにあったはず(いつの間にか見えなくなったのですが茂みに隠れてるだけかもしれない)。新千里北町と箕面市船場東の境界にもあったかな〜?

…と数えられるほど、NTの内外を結ぶポイントが絞られているのも、千里ニュータウンの大きな特徴ですね。
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今晩はどんと焼だ!

2007/01/15 00:29
画像正月のお飾りなどを燃やす「どんと焼」。1/13の千里北公園のは行けませんでしたが、1/14に千里南公園を通りかかったら盛大に準備中…今頃はもう燃やしちゃっただろうな?なんだかインディアンのテントみたいですね。

元々は「伝統行事」というものと全く無縁だった千里ニュータウン…。でもかなり早い時期から、「盆踊り」とか「どんと焼」とか、本来は地縁性に支えられた季節の行事が意識して行われるようになりました。なんとかこの町を「ふるさとっぽく」しようと…最初は「ぽく」だったのが、40年たつとホントに「ふるさと」と呼んでいい風格が出てきたような気がします。

でもNTに神社はないから公園でやるんですよね。これ千里的?
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パノラマ藤白台

2007/01/14 19:54
画像

千里中央公園展望台から見た藤白台(手前の古江台が画面のほとんどを占めていますが…)。画像をクリックし拡大してお楽しみください!

左が五丁目、右が一丁目、これでも全部入っていません。藤白台は全長が約2.5kmもあり、千里ニュータウンに12ある「住区」のうちで一番大きいのです。またこの展望台から見ると、一番横に長い角度から見ることになるんですね。左端奥のグレーの建物が国立循環器病センター、左30度に北千里駅、中央奥が阪大キャンパス、その手前に「ゆらら藤白台」(近隣センター)、右45度の竹林と万博公園の向こうにチョボッと見えるのが太陽の塔…。といった面々に囲まれて、団地と一戸建てが緑に埋もれるようにあるのが藤白台です。

展望台の竣工年月をたしかめようとプレートを探し回りましたが、見つかりませんでした。この展望台に一番乗りしたのはpigmonさんか昭和天皇ってことで…(1/11記事のコメント参照)。
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ホテル・カリフォルニア?

2007/01/13 04:51
画像南千里駅前の南地区センタービルと、新しくできた後方のマンション。ピンク系の外壁が夕映えで一瞬輝いて、ワシントンヤシの並木とお似合いでした。

左の南地区センタービルは、1970年に千里中央ができるまで、千里ニュータウンのいろいろな施設が集中していて、「ニュータウンの玄関口」とも言うべき機能を果たしていました。千里開発センター(→大阪府千里センター→タウン管理財団)のオフィスもあって、宅地などの現地申込もここで行われていましたし、津雲台七丁目の千里電報電話局ができるまでは電話の申込もここで受け付けていたようです。この中にある大和銀行(→りそな銀行)千里支店は、千里NTで最初の銀行だったんじゃないでしょうか?「南千里支店」ではなく「千里支店」なところが、ここが千里で唯一のブランチだった名残を伝えています。

後方のマンションの場所には、3〜4年ほど前まで阪急百貨店の寮が2棟建っていました。14階建てぐらいあったんじゃないかな?高層→高層で建て替えられたケースです。建替前の寮は1970年に建設直後は万博のホステスの寮として半年間使われたようで、昨年けっこう売れた小説「水曜の朝、午前三時」(蓮見圭一著)には、ここを舞台にしたシーンが出てきます。

タウン管理財団のサイトでは、この場所の古い写真を見ることができます。新旧比較のコーナーなんですが、その新しいほうの景色も今は過去になってしまいました。ワシントンヤシの成長にはびっくり!カリフォルニアは一日にしてならず。
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双児の未来都市

2007/01/12 04:23
画像千里中央公園の展望台から東南東を望む。

向こうは万博公園(左上が太陽の塔)。手前は千里ニュータウン。写っているのは古江台で、藤白台はこの角度だと間に埋もれてしまっていますが…

「双児の未来都市」とは、「カーサ・ブルータス」2004年9月号で、五十嵐太郎氏の紹介文の中に出てくる言葉です。「片方はほとんど消えてしまったが、もう一方は未来を生きている」と…
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展望台へ行ってみたかい?

2007/01/11 03:33
画像遠くから「千里ニュータウンを見たい!」というお客さんが来たら、まず連れて行きたいのがここ!吹田市と豊中市の境界近く(ぎりぎりここは豊中市側の新千里東町)、千里中央公園の展望台です。

1966年4月23日の昭和天皇視察に合わせて大急ぎで作られた…というタイミングだったようですが、その後もジミな存在ながらずっと住民に親しまれてきました。遠く万博公園もよく見えるため、万博建設中はその目的でここに来る人も多くありました。大臣や外国大使なども多く来たはず。エレベーターもないけれど、「2つの未来都市」が一望できる夢の場所でした。

そんなに高い塔でもないのに眺めがいいのは、吹田・豊中両市の境界線はほぼ稜線にあたり、どちらから見ても高台の上に立っているからです。藤白台からもよく見えます。上る手段は階段しかありません。昭和天皇も歩いて上られたはず。当時の記事の写しがこの階段に張ってありますが、若かったんだなと思います。当時は64歳で、今の天皇より年下でした。

吹田・豊中両市の境界線はほぼ千里中央線(「千里中央筋」とも「吹田箕面線」とも「千里さくら通り」とも…)に沿っていますが、この展望台がある千里中央公園だけは道の東側なのに豊中市が飛び出したような格好になっています。一見、吹田市古江台の一部のように見えますが…。こういう境界線になっているのは、NT開発前のジグザグの境界線を1965-68年頃新しい道に沿って交換整理した際、なるべく面積の増減が少ないようにヤリクリしたことと、NTに3つある大公園のうち、1つは豊中市側に置くという方針のためだったと思われます。

何はともあれ、「これがニュータウンですよ」と皆に教えてくれた展望台。ここに上ると開発期の「夢多き時代」がよみがえってきます。毎日夕方まで。入場無料です。
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三色彩道・坂道の構図

2007/01/10 04:51
画像
いろどりを競ったフウカエデも今は葉を落とし…。正月休みは行きかう学生の声も絶えて、ひっそりとしたただの坂道に戻った三色彩道でした。

背後に見えている部分のA棟公社住宅も、2012-3年頃には建替のため姿を変える予定になっています。

まもなく受験シーズンが始まると、三色彩道は再び新しい顔の若者たちを迎えます。学生も、住民も、建物さえもしだいに入れ替わりつつ、並木だけがどこまで大きくなるのでしょうか。
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冬のソナタ

2007/01/09 02:44
画像…って実はちゃんと見てないんですが、雪のふじのき公園は誰もいなくて、冬ソナに出てきそうなシーンがいくつもありました。

だからと言って冬ソナに出てきそうな人が藤白台に住んでるわけでは全くありませんのでお間違えなく…

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千里は雪模様

2007/01/08 11:58
画像1月7日、千里ニュータウンはが降りました。

一瞬うっすら雪化粧するかと思われましたが、すぐにミゾレのようになって消えてしまいました…。(あわてて写真を撮りに行く僕って、何?)
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未来都市の入口

2007/01/07 00:54
画像千里ニュータウンの入口に誇らしげに立っていた60年代テイスト満点の「ここから千里ニュータウン」を告げるコンクリートの標柱。五月が丘から高野台・佐竹台に入る千里一号線沿い北側の茂みの中に再発見しました。

以前は緑地公園から桃山台に入る新御堂筋沿いの西側、箕面今宮から藤白台・青山台に入る千里二号線沿いにも同じ標柱が立っていたはずですが…いつの間にか姿を消したような?たった一つ?残ったこの標柱も大きくなった樹木に隠されてしまって、クルマからだとよっぽど脇見運転しないと目に入りそうもありません。(て言うか「横見運転」が必要なぐらいです)

しかもよく考えると、この標柱、道路の北側に東を向いて立っているのです。…東から千里NTに入るクルマに見せたいなら、道路の南側に立っているべきですよね?昔は周囲の樹も小さかったし道も若干カーブしているからこの位置で十分目立ったのか?何箇所かあった標柱を整理して、この場所一箇所に移したのか…?(事情をご存知の方、ご教示ください)

千里NTは周囲のスプロール化に埋没しないよう、周囲を緑地で囲み、このような標柱を立ててハッキリと千里NTの内と外がわかるように設計され、それが住民を閉鎖的にしたとか、いや「理想都市」のアイデンティティを保つためにはこのほうが良かったのだとか、いまだに賛否両論拮抗しているようです。他のNTに行くと、千里ほど「ここからニュータウン!」ということがハッキリわかるほうがむしろ稀だということがわかります。

でもどうなんでしょう?せっかく日本初のニュータウンとして華々しくデビューし、多くの夢と理想を示してきた千里なんですから、この標柱もちゃんとリストアして、きっちり見えるように整備してあげたいと思うのは、僕だけ?

七尾から亥子谷を通って南千里に向かうルートは、新御堂筋ができる前は千里NTへのメインゲートでした。(1966年4月に昭和天皇が視察に来られた時もこのルートを使っています。)たまにクルマに乗せてもらって帰ってきたとき、この標柱を見るとホームタウンに帰り着いた安堵感と、ここからは未来都市だという高揚感を同時に感じたものです。
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葉ボタンの誘惑

2007/01/06 03:40
画像北千里駅前の花壇がお正月バージョンに衣替えしていました。

じっと見てると…◎◎◎…なんだか目が回ってきそうです。
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開発の現実

2007/01/05 23:59
画像すぐ前のブログでご紹介した小野原・春日神社鎮守の森のすぐ外側。

数年前まで里山と田畑が田園風景をおりなしていましたが、今は区画整理の真っ最中。向こうに見えているのは金蘭の建物。うすーく竹林のちょろちょろ残っている稜線の手前が箕面市小野原西、向こうが吹田市藤白台。このもう少し右手を行って稜線を越えると、千里北公園の緑が広がっています。

…言葉を失うような光景ですが、千里NTもいったんはこのようなマルハゲ状態を経て現在の姿に作り変えられたことを思うと複雑な思いにとらわれますね。

千里NT開発中は吹田市側のほうがこのようなマルハゲ状態であり、箕面市側が緑豊かな里山の光景であったわけなので、数十年を経てまるで写真のポジとネガが入れ替わったようです。
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徒歩10分の異界−小野原・春日神社

2007/01/04 23:04
画像深山と見まがう鎮守の森…ここは藤白台・北公園からわずか徒歩10分の小野原・春日神社。境内の縁起によれば、なんと神護景雲2年(西暦768年)からここにおわしますとのことで、1239年もの歴史があることになりまする。ハハーッ。

小野原は藤白台の北東に隣接する箕面市の旧集落を母体とし、京都から西宮に向かう西国街道(イマ風に言うと「イナイチ」=国道171号線)と小野原街道が出会うポイントに当たります。

つい最近まで「北公園の峠を越えると日本昔ばなしだった…」的景観が広がっていましたが、1980年ごろから小野原街道が拡幅されて旧集落の南東が区画整理・住宅開発され、残っていた西半分もついに…実はこの鎮守の森のすぐ足元までブルが入って、田んぼもあぜ道も溜め池も何もかも赤茶けた造成地になっています。溜め池にいたアヒルはどこへ行った?

小野原街道の記事国土地理院のサイトを紹介しましたが、終戦後までは小野原街道は箕面市に入ったあたりで今の道より西側にY字分岐し(何年か前まで「木馬館」があったY字です)、春日神社のすぐ下を通って旧集落に入り西国街道につきあたる…というルートだったようです。春日神社は山田村から来た道が集落に入る地点に構えて、街道筋を出入りする人たちを見守っていた…ということのようです。

その後、今の関西スーパーの前を通って「小野原」交差点に直行する東寄りのルートに街道がつけかえられ、それでも去年あたりまでは旧ルートもあぜ道のような格好で残っていましたが、今や一帯が全部造成されてどこがどこやら…?

同じように山田村の景観をすっかり変えて作った千里NTの住人が言う資格はないのですが…さびしい!でも「最後の砦」のように残った鎮守の森、末永く残って欲しいものです。赤茶けた造成地も、50年もすればまた緑が育って鎮守の森となじむことを願いつつ…

ホント、金蘭または北公園の裏から徒歩10分ぐらいなんですよ。
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縁起のいい風景

2007/01/03 18:45
画像藤白台の小高い丘で見つけたの取り合わせ。

がないけど…北千里から出る電車が梅田行きってことでご容赦を!
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北千里は燃えていた−天皇杯

2007/01/02 03:08
画像元旦の千里NTはまだ町もひっそりしていましたが、そこだけやたらと熱気が集まっていたのが北千里駅前のサッカー天皇杯パブリック・ビューイング!(昔で言う「街頭テレビ」ね…)

ディオス北千里は万博競技場をホームグラウンドとするガンバ大阪を、地元商店街としてずっと応援してるんですよね。結果は惜しくも…で、用意していたクス玉も割られませんでしたが、若い家族連れを中心に大勢集まっていました。

実はサッカーだけでなくスポーツ全般に弱い私の感想は…「なんだ、高齢化千里オールドタウンなんて言ってるけど、ちゃんと若い人を集める仕掛けを作ったら若い人が出てくるじゃん!」という、ガンバの熱烈なファンにはまことに焦点のズレた感想だったのでした。

千里NTは65歳以上高齢化率が26%なのですが、残り74%は64歳以下というわけだし、北千里界隈にけっこうある大学や高校に通ってくる人は「住民」のデータには入らないわけだから、若い人が楽しめる「仕掛け」を作ることがいかに大切かってことですねえ…。

どうも最近の日本は若い人のほうがマイノリティーみたいになっちゃってる気配が濃厚で…「若い熱気がムンムン」というシーンを久しぶりに見たら、なんだかおじいさんみたいな感想になってしまいました。
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アサーッ!

2007/01/01 03:58
画像
あけましておめでとうございます。

2007年最初の記事は藤白台のすぐお隣、万博公園・太陽の塔。6000万人というトンデモナイ入場者を集めたEXPO70から今年で37年か…!

万博公園はものすごーーーーく広いので藤白台から太陽の塔までは徒歩30分以上かかりますが、公園は小野原街道を挟んでお隣だから徒歩1秒!雨の平日なんかに万博公園を歩いたら、これは本当にブローニューの森もかくやと思わせる、ひっそりとした大森林です。

藤白台の小高い場所からも太陽の塔は後姿が4時の方角から見えます。岡本太郎先生の作品を37年間毎日拝んで育ったおかげで…「何も見なくても太陽の塔の後姿がフリーハンドで描ける」という、ほとんど披露のしようがない特技が身についてしまいました。

大阪万博は37年前の、たった半年間の出来事でしたが、あのころ小学校5年生だった僕には深い原風景になっています。日本中の親戚が泊まりに来たなあ…。

千里NTと大阪万博は双子の未来都市と呼ぶ人もいるほどイメージが重なるためか、ときどき「万博をキッカケに千里NTが建設された」などと書いてあるのを見ます。でもこれは間違い。両者は隣り合って同時期に建設されてはいますがお互いに独立したプロジェクトです。千里NTは開発決定が1958年、入居開始が1962年。万博は会場決定が1965年ですから千里NTのほうが少し早いですね。

ただし計画段階でお互いに深く影響しあったのは事実で、千里NTの第一次案では今の万博会場の場所までニュータウンにする構想もありました。ところがあまりの広大さに府の財政が持たないということで現在の敷地に縮小され…その減った分が会場候補地に回ったのです。大阪府がもっとリッチだったら千里NTは今の2倍の広さがあり、万博は大阪に来なかったかも…?と考えると歴史ってオモシロイ。万博が大阪に来たのは関西財界が誘致したからでもありますが、1970年は安保改訂の年にあたり、1960年安保の東京の混乱の再現を恐れて首都圏から遠ざけた…という説も…

なんて考えてると、なかなかに歴史の歯車がからみあった千里NTと大阪万博。でも今の太陽の塔はそんなことも知らぬげに、ただ、立っているのでした。
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