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アラウンド・藤白台
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日本で最初のニュータウン、大阪・千里ニュータウンの「藤白台」(ふじしろだい)周辺を一緒に探索しましょう!
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ブラックジャックか京劇か(幕張ベイタウン)

2009/11/07 00:40
画像カラフルな積み木みたいな幕張ベイタウン。たとえばこの集合住宅、(これ住宅なんですよ!)建物の正面と側面で色が違うのです。窓枠のアクセントまで、神経がいきとどいています。

こう見ると派手なようですが、トーンは微妙に抑えられています。たとえば赤の部分は紅殻(べんがら)のような色。黄色も原色ではありません。意外と伝統色に近いのかも?アートする町と言ってもいいのかな。こんな町で育ったら、色彩感覚が豊かな人になれるかも?それは無形の財産ですね。
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カラフル!(幕張ベイタウン)

2009/11/06 02:47
画像千里ニュータウンと同時期の「団地」では、あまりに同じタイプのヨウカン型の住棟をずらりと並べたため、画一的だとか、幼稚園の帰りに自分の棟がどこだかわからなくなったとか、奥さんが帰宅したら間違えて上がりこんだ男の人がコタツで寝てたとか(実話らしい…)さまざまな物語を生みましたが、えーいそれならこれでどうだ!

…とばかりに、色も…形も…質感も…2つとして同じ建物はないというぐらい工夫をしたのが幕張ベイタウン。でも無秩序じゃなくて、全体としては多彩なリズム感を生んでいるように僕には思えるのですが、どうでしょう。彩度を合わせるなど、全体としてハチャメチャにならないように、ちゃんとコントロールされています。

千里では「同じタイプの建物を並べる」ことが長年良い町並みとされてきたため、団地建替に際しても、幕張のような「冒険」は思いもよらないと言うか、無難なベージュ系でまとめてしまうことが多いようです(多彩にしてハチャメチャにならないというのはセンスが必要ですが…)。

実は千里ニュータウンでも、初期の府営住宅B棟などは単調さをすくうために一棟ずつ全部違う色に塗られていたのですが(幕張ほどじゃなくて、もっとビミョーなパステル調のバリエーションでした)、これも(たぶん)増築の時に統一されてしまい、誰も当初の実験を覚えていないようです。

こういう「冒険」を、千里でももう一度できないものでしょうか。そういうことが若い人たちを呼び込むんだと思うのですが。
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バレンタイン通り(幕張ベイタウン)

2009/11/05 03:08
画像はい、「バレンタイン通り(Valentine Way)」です。千葉ロッテマリーンズの監督をつとめた…(2009年退任)。

幕張は千葉ロッテマリーンズのホームがある千葉マリンスタジアムがある町。だから地元に貢献があった個人名を通りにつけたというわけですが、そんなあたりも外国っぽいです。僕はスポーツのことはからきしわかりませんが、地元にゆかりの有名人の名前をつけるって、千里ならたとえば藤白台に「宮本通り」、青山台に「葉加瀬通り」、古江台に「かしまし通り」っていうような感じでしょうか?(なんだか楽しくなってきました…)

この案内プレートは建物の壁に直接つけられていて、そんなところも異国感をそそります。…え?プレートに直した跡がある?…よく気がつかれました。2006年春以前はこの通り、違う名前だったらしいです。古い名前は…「富士見通り」。これはまた日本的・江戸的な…。「富士見通り」って言うなら通りの正面に富士山が見えるべきですが、そういうふうに設計したんでしょうか?

でも大衆の人気のほうが都市計画より強かったということで、この改称は住民の「住みこなし」のわかりやすい一例と言えるでしょうね。
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車道も石畳(幕張ベイタウン)

2009/11/04 01:41
画像囲み型の要塞みたいなこの町並みをさらに個性的にしているのが、石畳。車道も歩道も石畳で、凝っていることと言ったら…。

ハイヒールでは歩きにくそうですが、クルマのスピードを落とさせる効果もあるでしょう。車道と歩道の間は杭とチェーンで区切っていて、段差がないことも注意です(幹線道路の車道はアスファルトで、歩道との段差もありました)。

石畳はメンテナンスも手がかかるんじゃないかと思うのですが、これだけ個性強く作ったのだったら、なんとか維持してほしいものです。
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囲み型の街角(幕張ベイタウン)

2009/11/03 02:19
画像こちらはオフィス街じゃなくて集合住宅街。

幕張ベイタウンではよくある郊外ニュータウンのように建物をセットバックさせて芝生の前庭を取る…というアメリカ型の町並みではなく、逆に敷地境界線まで建物を出してブロックをロの字型の建物で囲んでしまい、庭はブロックの内側に取る…というヨーロッパ型の町並みが形成されています(丸の内っぽい感じもします)。

この写真に写った通りでは1階部分が商店になっています(散髪屋のサインが写っています)。いわゆる「ゲタばき」ってやつですが、商業ゾーンと住宅ゾーンを分けないで上に積んで「にぎわい」を演出する…という考え方も、千里ニュータウンとは全く違うところです。

電柱は徹底的にないし、壁面は不思議に波打っているし、カラーリングは大胆だし、ニュータウンが「何かを実験する先駆的な場」だとすれば、この町並みは(千里とは全然違うけれど)まさにニュータウンでないと造れない実験街区だと言えるでしょう。強烈なアイデンティティです。こういう造りだと「ニュータウン」と「ニュータウン以外」は素人目にも明快にわかるので、ニュータウン住民としての自意識はすごく高くなるでしょうね。

「囲み型配置」は千里ニュータウンの府営B棟などでも採用されていますが、この町の徹底ぶりにはかないません。敷地境界線まで建物を出すということは、通りは狭く見えるのですが、親しげににぎわっているようにも見えます。向き合った住宅どうしの視線はどのように外しているのでしょうか?

広い通りに連なる芝生…だけがニュータウンじゃないのです。
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キュビズムの町?(千葉・幕張ベイタウン)

2009/11/02 00:17
画像
ひさしぶりに千里を離れてほかのニュータウンの訪問記いってみましょう。ずいぶん溜まっているのでどこにしようか迷ったのですが、今までいろいろ行った中で景観ビックリ度No.1幕張ベイタウンにご案内します(訪問は今年2月)。

ここは京葉線海浜幕張駅の海側に広がる広大な埋立地に1995年から入居開始された若いニュータウン。千葉ロッテマリーンズの本拠地でもあります。

この町の最大特徴は、すべての街区がぴったりした「囲み型」の配置で、建物に囲まれた中庭がコミュニティの広場になっていること。中庭(パティオ)にちなんで「パティオス」という町の愛称もあります。電柱はなく、駐車場の多くは地下で処理され、カラフルな壁面と凝ったデザイン!壁が折れ曲がって飛び出していたり、まるで近代絵画の中に入り込んだようです。これ、集合住宅なんですよ。ここは中庭へ抜ける通路に池をあしらってますが、人工竹林があったりフラワーガーデンがあったり、ブロックごとにいろんな試みがあります。賃貸と分譲、両方あるようです。
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次停車(約40年前)

2009/10/31 03:24
画像こちらは1967年製の古いボンネットバスの社内。同じボタンでも今と全然違いますね〜。

実は今年5月につくばへ行ったとき、ボンネットバスで筑波山一帯を案内していただいたのです。こういう古いバスを動態保存しているNPOがあるんです!

このバスは1979年にワンマン化改造されたと書いてありましたが、このボタンは製造当初からついていたのではないでしょうか。よく見ると「ワンマンの時、お降りの方は、このボタンを押して下さい」と書いてあります。この「ワンマンの時」という一節は1960年代後半、千里ニュータウンを走っていた阪急バスの一部の型にもついていました。つまり、ワンマンでも、車掌が乗っていたツーマン路線でも、どちらでも使える二重装備になっていた型のバスが、過渡的にあったのです。

1965年に千里ニュータウン内の路線はワンマン化されましたが、これは比較的早かったようです。開発当初の千里ニュータウンではつぎつぎ路線を新設する必要があり、人手を抑えたかったのかもしれません。新しいニュータウンで新しいワンマンバスをやってみた…そのあたりのテスト場になりやすかったという背景は、北千里駅で日本初の自動改札機を入れたことと共通しているような気がします。

新千里山駅前〜山田または七尾〜国鉄吹田駅前を結ぶ路線は、そのあとも1970年ごろまで?車掌さんが乗っていました。そこでワンマン/ツーマンどちらにも使える型のバスだと、車両の融通がしやすかったわけです(「マン」って言うけど車掌さんは女性でした)。山田村を抜ける旧道は本当に狭く、そんなシーンでのすれ違いでは車掌さんが道に降りて誘導することもあったのではないでしょうか(自家用車でもすれ違いに苦労するほどだったような記憶があります)。現在バスが通っている南側のバイパスは、1970年前後に万博関連で整備されたのだったと思います。
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つぎとまります

2009/10/30 02:49
画像路線バスはニュータウンの毛細血管ということで、バスネタもう一発いきましょう。

いまではあたりまえになったワンマンバスですが、千里ニュータウンが出来た頃のバスには、まだ車掌さんが乗っていました。定位置は中央の扉のうしろで、独得の節回しで「つぎは〜藤白台一丁目〜藤白台一丁目〜お降りの方はご支度ください〜」とアナウンスをし、ドアの開閉をやり、お客さんが乗ってきたら運賃を収受する。(記憶があやふやなのですがたしか先払いだったかと…?)道が狭い場所やバックする時にはクルマから降りて「バックオーライオーライ…」と安全確認をやる。それが車掌さんの役目。

1965年の春に、それまで古江台しか回っていなかったバスが藤白台の中まで入るようになり、このときからニュータウンのバスは最先端の「ワンマンバス」に変わりました。乗客案内は独自のカセットテープになり、これを運転手が操作する。扉の開閉や運賃の収受も運転手がやる。そのために扉が前にもつき、乗客は必ず運転手の横を通るようになりました。前から乗って、先に運賃を払って、うしろから降りる。降りる前にはボタンを押して運転手に知らせる。

…という「新しい乗り方」ができて、バスの中にボタンがつくようになったのです(運転手さんはずいぶん忙しくなりました)。最初のボタンは無骨なブザーで、ランプがついていなかったため、同じバス停で降りる人が複数いた場合も確認ができず、皆がブーブー押していたのでやかましかった。そこで改良されて一人目が押すと「つぎとまります」のランプがつき、二人目以降はボタンを押しても鳴らないようになり、「ブー!」という音も「ピンポーン」というスマートな音になり、やがて確認ランプが運転手席につくようになり、放送はテープからIC式になってボタンを押すと「つぎとまります」と返事するようになり…ワンマンバスもずいぶん進化しました。ボタンも大きくなって、ずいぶんカラフル。

ちなみに当初のワンマンバスは「前乗り後ろ降り(先払い)」でしたが、このやり方だと区間別運賃の路線で最低区間の運賃だけ払って二区以上乗るキセルをされやすい…ということで、「後ろ乗り前降り(あと払い)」にひっくりかえして乗る時に整理券を出す…という方式をたしか大阪市交通局の人が考え出して全国に普及し、千里ニュータウン内の路線は均一運賃ですが1970年代なかばに「後ろ乗り前降り(あと払い)」に変わりました。乗ってる間に運賃を用意してもらったほうが乗り降りが速くなるっていう理由もあったかと思います。(なんでこんなことに詳しいんだ僕は?)

最近はバリアフリーの観点からノンステップまたはワンステップの車両が導入され、前半分を低床にするため、うしろの扉は車体中央につくようになって中央扉が復活しています。

高齢者の利用が多い千里ニュータウン線(とくにラッシュ時以外)では他の路線より多く低床車が導入されているようです。千里中央でニュータウン外から来るバスと見比べているとわかります。

ユーミンが昔ラジオで「遠い外国が違うのはあたりまえ。バスに乗っていくぐらいの隣町に本当の異国がある」みたいなことを言っていたのですが、バスに乗っていった終点につくと、もっと知らない町へ行くバス路線が出ていて、そんなバスの路線図を集めるのに凝ったことがありました。
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ニュータウン動物園

2009/10/27 01:25
画像車道を行き止まりにして歩行者専用の抜け道(フットパス)でつなぐ…という街区構成は全国のニュータウンで見られますが(こんなこんな)、車止めのデザインにはさまざまなバリエーションがあります。

ここ千里ニュータウンの豊中市側、新千里北町では、いろいろな動物が配置されています。ここはリス。これは一点物じゃなくて、あちこち歩くと同じものが複数見つかりますから、神経衰弱オリエンテーリングができそうです。

藤白台にもフットパスはたくさんありますが、こういう動物の車止めはないので、千里ニュータウン中のデザインの分布はどうなっているんでしょう?誰か調べた人いないのかな。
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「千里ニュータウンは世界遺産になれるか?」

2009/10/26 09:53
画像
1ヵ月近く前のことになりますが、10/1(木)、関西大学で「千里ニュータウンは世界遺産になれるか?−文化的景観としての都市」というタイトルの研究発表会がありました。

→つづきは博物館ブログへ!
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ニュータウンと介護

2009/10/25 18:14
画像私事になりますが、きょう10/25は、母の4回目の命日なのです。昨秋に父も見送ってから最初の命日、どこへも行かず静かに過ごしました。

つい先日、女優の南田洋子さんが亡くなり、前から気になっていた夫・長門裕之さんの介護エッセイ「待ってくれ、洋子」を読みました。南田洋子さんといえば僕らの世代には「ミュージックフェア」の16年も続いた落ち着いた司会の印象が強く、ニコニコしながらスパッと核心に斬り込みそうなところは、なんとなく母を思わせるところがありました。数年間の自宅介護ののち亡くなったのが76歳だったと読んで、母と同じだなと思いました。長門さんの数年間の介護の「告白」は、一緒にいる時間のかけがえのなさと、手を尽くしても病状が進んでしまうことのつらさ、介護以前と介護が始まってからのさまざまな悔恨…そういった気持ちが混ざって家族に押し寄せるあたり、介護を経験した多くの人に共通の心情ではないでしょうか。

千里ニュータウン、藤白台の市民体育祭は大盛況だったけれど、急速に高齢化が進んでいることはやっぱり否定できません。親世帯の定住性が高く、子世帯が独立して出て行くケースが多いニュータウンでは、高齢化はある地点から急激に進行します。70歳ぐらいだったら今や「カクシャク」という形容を使うのも失礼なぐらいお元気な方が多いですが、これから千里ニュータウンでは後期高齢化率が急速に上昇するでしょう。

どれほどの人たちが介護に向き合っておられるのでしょうか?介護が必要になった人やその家族は、町に出ることが難しくなります。普通に町を歩いていた人が、あるときからふっと姿を見せなくなる。それはいなくなったのではなく、ベッドで一日過ごしていたり、施設や病院とのあいだを往復していたり…周囲からはなかなかうかがい知ることができません。「人前に出てこなくなっても、いる」のが重要なところで、外に出てくる人たちだけで町は判断できません。

ニュータウンの近隣関係は昔の地縁社会のように「ご近所のことはお互いなんでも知っている」関係ではなく、ドライでもないけれど踏み込みすぎもしないビミョーな距離感を保っているので、そこの加減が自治会などでも悩むところです。「核家族の老後」に、私たちははじめて向き合っているのです。

「老・病・苦」そのものを避けることはできませんが、町に出て来られない人の存在を見落とさない、ニュータウンがそんな町であってほしいと思います。
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ありし日を偲ぶ(新千里北町)

2009/10/24 02:11
画像こちらは千里中央からほど近い新千里北町第3団地。いわゆる公団(現UR)の分譲団地です。

つい今月の初めまで姿を見せていたのに、先日、建替のために建物が覆いで囲われました。白にグリーンのアクセントがしゃれた塗り分けでしたが…。中には階段一列の「ポイント住棟」もまざっていて、これが青山台にあるのとは間取りがたぶん違うのか、外観も少し違っていたのです。青山台と新千里北町は連続して建設され、時期はほとんど変わらないはずですが、規格化されていて同じように見える「公団の団地」でも、窓の数などを数えると、いろいろなバリエーションが巧みに組み込まれていることが伺えました。

「ました」と過去形で書かないといけないところが、なんともせつない。URの賃貸団地は原則昭和40年代以降の建物については建替をせずに活用の方法を探る…となっているようですが、分譲団地については入居者の合意しだいですから、南町はすでにマンションになったし、桃山台は工事に着手、北町もあとを追って…と、つぎつぎと千里ニュータウン「初代」の建物が姿を変えつつあります。北町の建替前後の比較(予想図)は、こちらで見られます。

「建て替えないでリニューアルで行く」という決議の話はほとんど聞かないですが、そういったリノベーションの先例が少なすぎることもあるのではないでしょうか。ぜひいろいろな例が出てきてほしいです。
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タクシーという足

2009/10/23 03:53
画像PCの前に長時間座りすぎがたたったのかニュータウンめぐりの運転がこたえたのか足腰を痛めてしまい、何日間かけっこうタクシーのお世話になりました。(数日はほんとうに這うようにしか歩けませんでした…)

北千里駅前に乗り入れているのは看板にあるように吹田交通、日本タクシー、阪急タクシーの3社。千里中央には他社や個人タクシーも入っていますが、この3社が千里ニュータウンでは昔からメジャーです。大阪のタクシーはハイヤーを兼用できるようにしている会社が多く、落ち着いた色合いがほとんど(ここが東京と大きく違う)。千里では日本タクシーのエンジが一番派手で、吹田交通も阪急タクシーも黒塗りです(昔は吹田交通は白、阪急タクシーは上半分が黒+下半分がオレンジでしたが…)。

運転手さんはおおむね親切で、だいたいの道を言ったら正確に運んでくれるので助かります。電話をすればだいたいすぐ来てくれます。千里は道も広いし住所の付番も整理されていて営業しやすいでしょうね。

カメのようにそろそろと足を運んで乗車したら「お客さん、この数日で足痛めはったでしょ」と運転手。「なんでわかるんですか?」と聞いたら、「元から足がわるい人はそれなりに動作の流れがあるけれどお客さんは動きがぎくしゃくしてるから」だそうで、さすがに運転手さんの観察眼はするどいです。高齢化している町で、タクシーの役目は重要だなあ。

生前の父が80代後半になってもマイカーの運転をやめずに心配していたころ、マイカーを手放したらどれだけタクシーに乗れるか試算したことがあります。駐車場代が近所の相場は月15,000円、税金と整備費とガソリン代と…と計算したら、「タクシーは贅沢」なんて言うけれど、日常的に乗りまくるのでなければマイカーより安い。運転手つきのカーシェアリングだって考えたらいいんじゃないかなあ?…でもやっぱり空車がないときもあるし、自由が制約されるような感じがするんでしょうね。とくに帰りが、呼ばなくてはなりません。

高齢になってクルマの運転も難しくなった人がタクシーを使いやすいように、割引制度とかサービスとかいろいろ工夫してほしいものです。
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信号機も交代中

2009/10/20 01:48
画像千里南公園の東側で、面白いシーンに遭遇…。信号機の取替作業をやっていました。

地上に置いてあるのが新しいLEDタイプ。アームについてるのがお役御免の電球タイプ。LEDタイプは「消費電力が少ない」「寿命が長い」「ハッキリと明るく入射光で光ったように見えない」というメリットがあるようです。

最初にクルマで通りかかった時、南行の車線を止めて、作業車のアームの上でおじさんが信号機を抱きかかえるようにまさに取替中!だったのですが、いきなり路駐してカメラ出して…というわけにもいかず…。クルマをガーデンモールに停めてから歩いて戻ったら南行の作業は終わっていて、これから北行をやる…というところでした。

こんなふうに町は少しずつ更新されていくんだな。
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団地萌えとニュータウンマニア

2009/10/19 01:14
画像きょう日曜日は千里山で団地見学ツアーと団地萌えの皆さんによるトークセッション「ダンパクF」があり、行ってきました。

千里ニュータウンの先輩であるUR(公団)千里山団地、いよいよ来年から建替のため解体に入るのです。この数年、「団地萌え」が静かな…どころじゃない?ブームの様相ですが、人数限定の団地見学ツアーに混ざってみたら…皆、若い!こりゃへたするとツアー最高齢は自分かも…?と思いつつ、若い人たちがこんな熱心に団地に向き合ってるってなんだろう?と思いました。

でも考えてみたら、少なくとも1960年代までは「団地族」って、時代の先端の憧れの的だったのです。「遠い・狭い・高い」だの、画一的で犯罪の温床になるだの、評判がぱっとしなくなったのは1970年代後半以降…日本全体が「豊か」というか、だんだんハデになって歯車が狂っていったのと同じ時期だったような気がします。

…ということは、時代背景がまた1950-60年代に戻ってるんじゃないか?若い世代の嗅覚ってばかにならなくて、しがらみに縛られてないからいつも素直な選択をしていると思うからです。それは「簡素でも合理的」という思想、「共同体への信頼」って言ったらいいのでしょうか。2009年、日本では住宅はとっくに足りてる計算になってるわけですが、一方で派遣切りに遭って家もなくなる…なんて人たちが出るのは絶対おかしいし、1955年に住宅公団をつくって住宅500万戸を建設すると宣言したのはくしくも鳩山(一郎)内閣でした。…今の総理のおじいさんです!

たのもしい?団地萌えの皆さんにまじってニュータウンのことを考えていたわけですが、「団地」と「ニュータウン」って同じじゃないんだけど、「簡素でも合理的」「共同体への信頼」っていう同じ線上にやはり乗っているのではないか?もとは「一団の土地」の略だった「団地」のスケール、コンセプトをさらに広げて複合的な町にしたのが「ニュータウン」でしょう。日本のニュータウンを歩くニュータウンマニアもがんばらなくっちゃと思った良き一日でした。(「団地」「ニュータウン」「集合住宅」の定義の違いは長くなるのでまたこんど…)

千里ニュータウンの中に、団地はいっぱいあるけど給水塔はないっていうのも発見!自分の町でも見落としてること、いっぱいあります。(こちらにも別バージョンのレポートがあります。)
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勝手に定点観測(写真展とコラボ編)

2009/10/17 23:51
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こちら北千里駅前のロータリー。2階から見下ろして撮っていますが、この同じ場所の推定約40年前の写真が、ただいまEXPO CAFE(天満橋)で開催中の「千里山(1964〜1970)」写真展で見られます!

こりゃ〜若い人はどこだかわからんわ〜。答えを知ってる僕が見比べても、あまりの違いにびっくり。昔の写真に写っている団地群は大半が今もあるのですが、SATYが目の前にどーん!と立ちふさがり、その向こうには旧・北千里小学校の校舎も、この昔の写真のあとでできています。手前には雨よけの屋根もでき、ロータリーの中央部は誰もが停められる駐車場だったのが(こんな駐車場で足りてたのね…)今は植栽に変わりオブジェも置かれています。バス乗り場に面した専門店街は平屋だったのが3階建に改築されました。右手にちょっと見えているセンタービルは実は同じなんですが、ファサードが改装されています。

今から40年たったら、どうなるんだろう?
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「千里山(1964〜1970)」写真展…天満橋・EXPO CAFE

2009/10/16 02:46
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開発初期の千里ニュータウンや建設中の万博会場が、若いレンズによみがえる!

前にも一度ご紹介したまぼろしの写真集「千里山」(自費出版なので一般の本屋では売っていないから)。産木民彦さんが千里丘陵を歩き回って記録した貴重な写真のかずかずが、いま、万博マニアがひそかに集まる天満橋EXPO CAFEで展示されています。

今回は特別に、写真集に収録されていない初公開ショットも、壁の展示やファイルブックで見ることができます。北千里周辺、藤白台、「現代美」としか言いようのない万博建設現場など、今からおよそ40年前の貴重なシーンが満載!千里ニュータウン住民の方にもぜひ見ていただきたい展示会です。(若い人が見たら「これが北千里ですよ」って言ってもわからないかもしれないですね…すごくカッコイイです!)

写っている住民は、全員若奥様!全員ミニスカート!…って言っても誇張じゃないのは、見たらわかりますよ。

天満橋のEXPO CAFEは、EXPO'70研究にハマッてついに脱サラしちゃった白井さんが、「1970年の雰囲気の再現」にこだわりぬいて開いたお洒落なカフェ。万事こだわり趣味の白井さん、メニューのほうもすごく美味しくて凝ってます。万博を知らなくても十分楽しくて明るいポップな空間です。

「EXPO CAFE」は、天満橋交差点から南西に少し入り、北大江公園を西にちょっと行ったところ(大阪市中央区島町2-10)。天満橋駅から徒歩3分。11:00-22:00。日曜日は休み。電話は06-7504-7365。

いい場所でいい展示会の組み合わせに、きょうはちょっと興奮気味で書いてしまいました。展示期間は決まってないそうですが、どうぞお早めに…。このブログの読者の皆さんだったら、もう一度行きたくなるに違いありませんから…。
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おしゃれなバス停

2009/10/13 23:59
画像バスネタが続きますが、南千里駅前の再整備で移設された新しいバス停。

しっかりした屋根と側面の雨除けがついて、ベンチや時刻表掲出板も一体化していて、しかも、なかなかオシャレ。大きな広告スペースがついているのがミソで、この広告代でメンテナンス費を出すことになっていると聞きました。

昔のバス停は棒杭一本に「阪急バスのりば」と書いた表示板がついてるだけの簡素なものでしたが、木製がスチール製になり、バス停によっては屋根がつき、ベンチが置かれたりしたのはいいのですが、そこについている広告が消費者金融のだったりベンチもボロボロになったり…「バス停」はニュータウンの景色にポイントポイントで影響するアクセントなのでもうちょっとなんとかならないのかなと思っていましたが、これだったら、VERY GOOD!でしょう。(欲を言えば、もう少しベンチが長くてもいいような気はしますが…)

こういうの、ストリート・ファニチャーというらしいです。「街路の家具」。いいデザインのストリート・ファニチャーは、町を引き立たせますね。ニュータウンはいつまでも、おしゃれであってほしいです。

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市民体育祭、大にぎわい!

2009/10/12 23:54
画像10/11(日)は、自治会を中心とした第44回市民体育祭が藤白台小学校でありました。

わたしは究極の運動音痴ということもあって、小学校の目の前に住んでいるにもかかわらず一度も参加したことがなかったのですが…やはり自治会の二大行事のひとつとあっては(もうひとつは盆踊り)、「若い男手がいる」と言われては今年はもう、断れません。(若い??それは相対的な尺度ですから…)

参加して思ったのは、「藤白台、ぜんぜん高齢化してないじゃん!」ということ。少なくともその日校庭にいたら、40年前、ほんとに「ニュータウン」だったころと全然変わらないし、それどころかますます発展しているように見えました。幼児からお年寄りまで、抜けている年代がない。幼児も小学生も中高生も20代も若夫婦も中年も前期高齢者も後期高齢者も、全部いるのです。

しかも競技のたびに「自分から出る」人がわさわさと入場門に集まってきて、(これが少なかったら引っ張り出すのも役目だったりしたわけですが)そんな心配ぜんぜんナシ!さすが44回重ねているだけあって、希望者は多すぎず少なすぎず、事前に決めているわけでもないのにだいたい定員前後に収まるところもすごい完成度でビックリでした。

ニュータウンは少子高齢化していて、学校も廃校が出て、世代が偏っていて沈滞化が著しく社会問題化している…と一般には言われているのに、これはどうしたことか?藤白台は例外なのか?

ほんとうに例外なのかもしれないと思いました。(もちろん足腰が立たなくなった人は体育祭には来ないわけですが…。)というのは、まず住区の単位がもともと大きいこと。隣接する(ニュータウン外の)上山田に30年前からマンションが続々と建ち、一丁目の社宅群も順次マンションになって若い家族がたえず供給されていること(上山田は藤白台小学校区で、連合自治会も「藤白台地区」といえば「藤白台+上山田」です)。ここに公社・府営の建替が進むと、新しい住戸がまた供給されること。意図せずして、最初からの住民→上山田、一丁目のマンション住民→団地建替で入ってくる新しい住民…という世代ローテーションがちょうど20年間隔ぐらいで成立していて、町が回っているのです。とくに上山田のインパクトが大きい。(戸建地区がたえず高齢化ぎみであることは事実です。こんなに高くなっちゃあ、若い人はなかなか買えません…)

吹田市の推計では、こんご藤白台は後期高齢者と40代ぐらいに二つの山がある年齢構成に変わっていく…となっているのですが、こんなに元気な体育祭を見たら「もっと高齢化するんだから対策を打っておかないと。若い世代を呼び込まないと」といくら言っても実感わかないだろうなと考えてしまいました。

ちなみに当日はとりこむだろうとカメラ持って行かなかったので、これは翌日の写真です。ヘソマガリですが…。インフルエンザの影響で小学校の運動会が今週半ばにずれたとのことで、テントはそのまんま。万国旗もおいてあったら雰囲気出たのですが、さすがにちゃんとしまってました。ソ連の旗がついてる万国旗でした。
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台風の翌朝2.

2009/10/09 02:51
画像もうひとつ「あっ!」と思ったのは公社の建替工事現場青いベールの上の部分が外れていて、まだお化粧していない屋根の部分がお目見え…。

傾斜屋根が見えるってことは、やっぱり上までできてたんですね。ベールは風で外れたのか、台風に備えて外しておいたのかはわかりません。このアングルは崖の上から撮ったので、低く見えますが新棟は崖の下に建っているのです。14階建だから崖の上まで頭を出しているというわけ。写ってませんが写真のすぐ右手にはゾウの滑り台があります。

完成予想図ではベージュ系の色にお化粧されるはずです(この棟は完成予想図の真ん中の列)。台風でお目見えしちゃうとは…。
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台風の翌朝1.

2009/10/08 23:35
画像ひさびさの大型台風18号が上陸。千里でも10/7の真夜中は家が揺れるほど強い風が吹きました。雨よりも風が強かったようです。

一夜明けると…台風は少し東にずれて知多半島に行ったものの、並木のトウカエデが青いまま葉を散らしてミゾにぎっしり!木は強風にこすられたようにハゲハゲになってしまい、今年の紅葉はどうなることやら…?折れた枝も落ちてます。藤白台小学校は一限目が休みになったようで、いつもは会わない子供たちと大勢会いました。

藤白台の真ん中は少子高齢化しているのですが、隣接の上山田はまだ子供が多くて、台風一過のにぎやかな登校風景でした。
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近鉄エリアまで300m

2009/10/05 23:33
画像千里ニュータウンでは見慣れない色のこのバスは、近鉄バス。実は藤白台まであと300mのところまで路線網が来ています。

茨木から万博公園に乗り入れるバス路線は阪急バスのほかに近鉄バスも受け持っており、その一部が阪大吹田キャンパスにも乗り入れているのです。この写真を撮った「阪大本部前」から藤白台までは、約400m。「記念公園西口」から藤白台までは、約300m。近鉄バスのエリアとしては西側の最前線と言ってもいいでしょう(高速バスは除く)。近鉄バスでは「スルッとKANSAI」は使えますが、「PiTaPa」はまだ使えません。

なぜ近鉄が茨木に?という歴史をさかのぼると、元は「茨木バス」という会社があって春日丘などに乗り入れていたのを1965年に近鉄が合併して「近鉄バス」になり、万博会場への大量輸送を分担するために万博に乗り入れ、これが阪大キャンパスまで足を延ばしてきた…という経緯があるようです。

藤白台は箕面市と境界を接していますが、実は茨木市ともかなり近い(阪大キャンパスの一部は茨木市美穂ヶ丘です)。違う色のバスは「隣町」という異文化を運んできてくれそうな気がします。
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町の色

2009/10/04 20:07
画像
…と言ってもいろいろありますが、僕がひとつ、「これを変えたら町の風景がずいぶん変わってしまうだろう…」と思っているのが、阪急バスの車体色。少なくともニュータウンができた頃から、ずっと変わっていません(少しブルーの部分が減ってベージュの部分が増えてはいますが)。

76番が藤白台回り。77番が古江台回り。バスが藤白台に乗り入れるようになったのは、1965年春。当時は新千里山駅前(現在の南千里)発でしたが、古江台とペアを組まされて交互に循環する形態は、当時からずっと同じです。1967年春に北千里駅ができて北千里始発になり、1970年春に千里中央駅ができて千里中央始発になり、途中、西町を経由するようになったり経由をやめたり、前乗り後ろ降りだったのが逆になったり、低床式になって真ん中の扉から乗るようになったり…と細かな変化はありますが…。バスは千里ニュータウンの毛細血管みたいなもので、高齢化社会の足としてがんばってほしいものです。

バスの車体色は町の風景に密着しているからでしょうか、全国的に鉄道の車体色よりも変更されることが少ないようです。都市部では複数会社のバスが同じ道を走ることも多いので、車体の色を変えるとどの会社のバスだかわからなくなる…ということもあるでしょうね。

…欲を言うと39年間路線の大変更をやっていないので、山田駅に出る便があるといいなあと思うことがありますが…あまり複雑にしてもわかりにくくなるから、変えないことも見識かもしれません。

郊外のかけがえがない平凡な日常風景に、バスは欠かすことができません。

※阪急バスの公式サイトTOPでは千里中央を中心にした24時間ドキュメンタリーが見られます。
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建替遠景

2009/10/03 23:54
画像千里中央公園の展望台から藤白台方面を見て。

北千里駅前で進行中の公社建替新棟が、大きく目立ってきました。その右手にある既存棟は5階建ですから、この角度からだと古江台に隠れて見えません。右手前には古江台で進行中の府営住宅建替現場も見えます。こちらも新棟が成長中…。

その手前のギザギザ屋根は古江台小学校。画面向こうに屏風のようにそびえるマンション群は上山田。その向こうは彩都〜サニータウン方面。ニュータウンの新旧が交錯する2009年です。
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あやしいアジト

2009/10/02 23:37
画像もう1ヵ月以上前、8月の終わりのことになりますが、北公園に突然あやしい建物が出現…ブキミにも最初からヒビなんか入っており、ショッカーのアジトか!?(写真をクリックすると拡大して表示されます)

しかも手前には瓦屋根の民家を模したらしい三角屋根もつくられ、橋が落ちた様子、傾いたバスなど、もうただならぬありさま…しかも裏に回ると、これハリボテで裏はベニヤまるだし!誰もいない北公園で、あやしさ400%です!

…ということはもちろんなくて、9月1日は防災の日(なぜ?1923年に関東大震災が起きた日だからです)。それにちなんで9月2日に地域防災総合訓練が行われ、それ用のセットが数日前から準備されていた…ということです。ふだん何もないところにいきなり出現するもんだから、自然体験交流センター建替中の仮設建物が、こんなところまで出てきたのかと思っちゃいました。最近千里ニュータウンはどこもかしこも建替だらけで、何を見ても建替関連に見えてしまう…ちょっと睡眠不足かなあ。

いたずらされないようにショッカーの一味が…じゃなくてたぶん市の職員がひとりずっと見張っていましたが、夜はどうしていたんだろう?
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何階まで行ったやら…

2009/10/01 21:13
画像ここも定点的に追いかけている、藤白橋上からの公社建替工事現場。9/29撮影。そろそろ14階まで積みあがったでしょうか。妻面には「公社賃貸ブランドOPH」と大書きされた広告も取り付けられました。

過去の写真と比べてみると…7/18に撮った写真と比べても、ずいぶん高くなっていることがわかります。その前の写真もその記事からたどってご覧ください。

「OPH」は「Osaka Prefectural Housing co.」の略らしい…つまり「大阪府住宅供給公社」ってことで、佐竹台新千里東町、新千里西町など、建替が終わった公社賃貸住宅ではこの名前がつけられています。藤白台ができると、千里ニュータウン内で「OPH」を名乗る新しい公社住宅がある住区としては4番目になります。

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天高く…

2009/09/28 00:58
画像こちらは藤白台の公社建替現場。実はこの写真、8月23日に撮ったものですが、空は早くも秋の気配でした。

今はもっと高くなっています。最終的には14階建になりますから…。周囲の既存棟に比べてほんとうに大きいですが、足場で囲んでいるうちはキグルミを着ている状態ですから、足場を外せばもう少しスマートに見えるはずです。
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南千里駅前定点観測(2009年9月13日)

2009/09/27 12:29
画像もう一発、南千里駅前の定点観測行きましょう。以前から追いかけている、南千里駅梅田行きホームから東方面の風景(これまでの姿は、こちらから順にたどってご確認ください)。

佐竹台メゾネットの跡地に、新しいマンションの姿が立ち上がってきました。定点を忠実に追った画角では、新しいマンションの姿があまり入ってこないのですが…。遠く見えていた佐竹台二丁目の公社の棟が、ふたたび隠れてしまいました。
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ここはどこ?は南千里でした!

2009/09/24 02:02
画像昨日出題した「ここはどこ?」はおーぼらさんのコメントが大正解で、南千里でした!(ただし当時の駅名は「新千里山」)

コメントにあるとおり、今は北千里行きのホームが増設されているため、定点(梅田行きのホーム上)から写真を撮ると、北千里行きホームに画面が隠されてしまいます。で、この写真は北千里行きホームに場所を移して擬似定点撮影。丸善石油のガソリンスタンドはコスモ石油に名前を変え、今も同じ位置にあります(平屋が2階建になっていますが、元の写真より接近して撮っているのでよけいに大きくなったように見えます)。左のプレハブの飯場の位置には吹田市の南千里庁舎が建っています。背景の荒野の変わりようには息をのむばかりですが、左手の高台は今も残って、ここだけがなごりをとどめています。しかし植生は松から変わっているように見えますね。

この場所をいま撮りたいと思ったのは、長年建替でもめてしまった千里桃山台第2団地(5階建の部分)が解体工事に入っているからです。山林から造成地へ、そして団地へ、新しいマンションへ。現代の日本の郊外では、景観はそのように何度も移り変わっていきます。退去してから建替がもめ、仮住まいが長くなってしまった方々を複数存じあげているので「やっとですね…」と声をかけたくなりますが…

健ちゃんさんからは「万博会場では?」とコメントをいただきましたが、この桃山台・竹見台あたりは、万博予定地の買収がてこずったら会場に転用できるように平たく造成されたというエピソードがあるので、たしかにそのように造成された…ということが偶然証明されたようなものですね。建物がない状態の写真だから、地形がよくわかります。たった40年あまりでも、土地はさまざまな物語を生んでいきます。
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ここはどこ?(千里ニュータウンです)

2009/09/23 01:44
画像ひさしぶりに千里ニュータウン…なんですここは。ただし1965-67年頃。ニュータウンにお住まいだったある方が撮られた写真です。(このブログの写真、サイトポリシーに書いてありますが勝手に取って使わないでくださいね!)

さてどこでしょう?見わたすかぎり茫漠たる荒野。造成したあとと思われますが、薄緑に見えるのは、しばらく造成したまま置いてあったのでしょうか。ヒントは手前下にちょっと写ってる線路。裏返しになったガソリンスタンドの文字は「丸善石油」。このガソリンスタンドは今も同じ場所にあります(建物は変わっています)。丸善石油は今は合併して…?左上には、里山の頂をほんのちょっと残したらしい松林が見えます。

あまりにつかみどころがない風景のせいか構図としては中途半端ですが、いまや貴重な記録です。

ちなみに「OH!モーレツ」のCMで一世を風靡したのが丸善石油ですが、それは1969年だからこの写真よりもっとあとです。目を凝らしても小川ローザののぼりなんか写ってないのであしからず…
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心臓移植募金・その後の報告と御礼

2009/09/22 00:55
昨年の今頃、このブログ上でご協力をお願いした岩田天晴(てんせい)君(私の同僚の息子さん)心臓移植のその後のご報告です。

皆様のご協力を頂いて募金は無事目標額を集めることができ、天晴君は今年1月6日に渡米、ニューヨークのコロンビア大学病院に入院しました。わずか2日後の1月8日に適合するドナーが現れ、心臓移植手術が行われました。以後経過は順調で、経過観察ののち8月5日に帰国。公式サイトの近況報告によれば、2学期から1年半ぶりに学校に復帰したとのことです。

このブログでは右のリンク欄トップに「天晴くんを救う会」へのリンクを設け、心を寄せてくださった皆様と見守ってきましたが、天晴君が「普通の生活」に戻っていくことを願って、このリンクは9月限りとしたいと思います。(公式サイトはクローズされるわけではありませんので、引き続きご覧になりたい方は「お気に入り」への登録をお願いします。)

心臓移植手術といえば、昔は新聞のトップニュースになるようなことでしたが、その必要が身近で起きたということ。本人の生きる力、見ず知らずの人を含め大勢の人たちの支え、「いのち」の重さ、医療技術の進展、そこにはたした「コミュニケーション」や「WEB」の力の大きさなど、私にとっても、とても感じることが多い経験でした。私は「広告」というコミュニケーションを仕事にしていますが、私が関わったのは微力なほんの一部であっても、ひと一人の命が救えたのであったら、コミュニケーションを仕事にしていて本当に良かったと思いました。「仕事、ちゃんとやんなきゃ!」と、すっごく思いました。

私たちが暮らす藤白台にも国立循環器病センターがあり、難しい心臓病の研究・治療に対して世界レベルの前進基地となっています。日頃感じることはなかなかなくても、着実な努力によって私たちは「進歩」しているのです。

人間ひとりの力は小さいですが、何かができないわけじゃない。見守ってくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。
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海と山と(潮芦屋)

2009/09/21 02:17
画像潮芦屋地区でいちばん多くの面積を占めているのは、写真のような普通の戸建住宅です。平均80坪ぐらいでしょうか。芦屋浜でみられたタウンハウスは、潮芦屋にはありません。

…ミョーに写真がコザッパリと見えるのは、電柱が一切写っていないからでしょう。しかもアンテナもないようです。ケーブルにしているんでしょうか。道との境界は生垣にすることで統一されているようです。

背景には六甲山!これがなくては阪神間とは言えません。前には海。どちらかだけでも地域の魅力としては十分大きいですが、それが両方あるんです。海と山両方が楽しめることは、昔からこの地域が愛されてきた大きな理由ですが、埋立地のシンプルな風景の中で、阪神間伝統の舞台装置もきわだって見えるようです。
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災害を逃れて(潮芦屋)

2009/09/20 00:15
画像潮芦屋地区はヨットハーバーつきの豪邸だけでなく、震災で家を失った人たちが入居する公営住宅…災害復興住宅もあります。

災害復興住宅は神戸市ほか阪神大震災の被災地に数多く建設されましたが、短期間で大量かつ一定の品質の住宅を供給する必要があったという点で、人口増加に追われた高度成長期のニュータウン建設につうじる成立事情があります。大急ぎで作った町を、いかに愛着の持てる町にしていくか…しかも一般のニュータウンとは異なり、災害復興住宅では最初から高齢化が進んでいるわけです。

「南芦屋浜 災害復興住宅」と入れて検索すると、この町を舞台になされたいろいろな試み、「早く、いい町」を造ろうとした努力の足跡が出てきます。高低や棟の向きをとりまぜた配置も、新しい団地設計の手法が取り入れられていますね。
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「ゲーテッド」考(潮芦屋)

2009/09/19 02:14
画像「プライベート・ヨットハーバーつきの豪邸街」の入口。オシャレですが厳重な塀に囲まれています。左の建物はエントランスの詰所なのか個人のお宅なのか…?マンホールのフタまで花崗岩で、写真を撮っているだけでも緊張してしまいました。

不安の種が尽きない世の中、セキュリティを売り物にする町が出てくることは市場原理から言って不自然な話ではありませんし、多くのタワーマンションなどは入口でセキュリティがかかっていて実質的にゲーテッド・コミュニティ化しているわけですが…さてそれが「当然のこと」になっていくのはどういうものか…?(この話は前にも書きました。)つまりその傾向があまりに進むと、「地域の分断」が起きてしまうからです。

でこの塀の前で僕が考えたことは、「芦屋だったら、ま、いいか」という明快でない基準でした。世の中のどこかには、このようなお金持ちの町があって、そういうある種の「夢」はあっていいものだと思うし、芦屋は日本でもトップクラスの富裕層が集まる町ですから、それがあるのにふさわしいと言えるからです。お金持ちの暮らしも苦労がたえないだろうな…とよけいな心配をしてしまいましたが、そういう生き方が悪いわけじゃない。それにこの一画は町の一番端にあり、海岸線を全部占拠しているわけでもありません。

しかし千里が建替などでゲーテッドぽくなるのは、僕はいやです。まず「格」が違う。千里ニュータウンの思想は「どのような収入層であっても良好な生活環境を享受できること」にあって、豊かな公空間こそが千里の財産だと思うからです。高度成長期に公費を工面し、農家から土地を収用して造った町ですから、その恩恵が一部の層に偏るのは筋が通らないし、「どのような収入層にも等しく」という発想になるのは、当然のことです。千里は生活満足度が高いとされ、住民が定着したために高齢化が進んでしまった一面がありますが、その芯は「合理的思想」であって、それを「高級志向」だと思うのは、ひどい勘違いです。

「千里はブランドである」と言う人は地元に多くいて、たしかに周辺より不動産は高いのですが、「千里ブランド」は「芦屋ブランド」とは違う方向をめざすべきでしょう。
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ヨットハーバーつき分譲住宅(潮芦屋)

2009/09/18 10:07
画像この潮芦屋では、ぜひとも行ってみたい住宅街がありました。ヨットハーバーつきの住宅街。海につながる水路が引き込んであって、なんと一軒ごとに自家用ヨットを自宅裏のプライベートハーバーに係留できるのです。勝手口出たらすぐヨット。さすが芦屋!埋立地も違う!こんなコンセプトは、日本では芦屋か、さもなくば葉山あたりでなくては成立しないでしょう。

この一画はまた、日本では珍しい「ゲーテッド・コミュニティ」(全体が塀で囲まれていて不審者が入れないセキュリティつきの町)としても話題を呼びました。まさに門外漢が入れない…というやつです。(この写真は塀の外から撮ったのでアングルがいまひとつ…。)

まさに「お金持ちのための町」という造りですが、まだできて日が浅いためでしょうか、軒数がさほど多くないためでしょうか、威圧感は感じられず、海辺の片隅でひっそりと潮風だけが吹いていた…という印象でした。植栽もまだ完成していないのでしょう。

この町がサンディエゴやモナコみたいな風格を手にするには、まだ年月が必要なのでしょうね。
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海とむきあう(潮芦屋)

2009/09/16 01:02
画像
潮芦屋地区でも人工の砂浜が造られているのはごく一部で、あとはやはり定規で引いたような護岸になっていますが、泳ぐことはできなくても釣り人たちはいっぱい集まっていました。何が釣れるんでしょうか?食べられるんでしょうか?

水平線のかなたには紀州の山並みが見えます(行ったのは空気が澄んでいるお盆の日でしたから…)。谷崎潤一郎「卍」には芦屋浜の2つ大阪寄りにある香枦園浜の情景が出てきます。

「宅は海岸の波打ち際にありますのんで、二階はたいへんに見晴らしええのんです。(中略)それはとても明うて、朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日ィは松原の向うに、海越えて遠く紀州あたりの山や、金剛山などが見えます。」

この日は関空に下りていく飛行機も驚くほど間近に見えました。海つきのニュータウンはやはりかなり贅沢と言えるのでしょうね。錆びることなんか気にしていてはいけません。
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白砂青松を復元する(潮芦屋)

2009/09/15 10:27
画像海水浴場があったころの阪神間は、こんな風景だったのでしょうか。人工の潮芦屋ビーチの周囲には、高度成長期まで阪神間にはいっぱいあった松林が再現されています。通りかかると若い松の葉っぱがいい匂い…。

阪神間の松原と海の原風景は、まさに風光明媚というべきもので、谷崎潤一郎の「卍」などにも描かれています。

高度成長期に造られたニュータウンは(千里もおおむねそうですが)元あった景色を必死に塗り替えて「新しい景色」を造ろうとしたかのように思われます。芦屋浜も1970年代に造られた部分は、まさにそうです。村上春樹が「羊をめぐる冒険」で書いた空虚感は、その「塗り替え」が生んだものであったでしょう。

しかし時代が下がり、最近のまちづくりは、その土地の原風景をなんとか取り入れたり、再現しようという方向に変わりつつあるのではないでしょうか。千里ニュータウンでも「じゃあ千里らしい景色って何よ?」と問われると、「竹」に帰っていったりして、そういうイベント活動が行われています。(松原のある浜の風景や千里の竹林も、もとはと言えば江戸〜明治期に人工的に造られた風景らしいですが…)

もちろんそれが、開発の「罪滅ぼし」であったり、「ぱちもん」の原風景であってはなりません。しかし記憶やストーリーを失った新しい町をどんどん造っても、すでに人口減少時代に入った今、人は来ない。この人工の松原は、ささやかだけど一歩前進とは言えるのではないでしょうか。
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潮芦屋!

2009/09/14 01:59
画像「芦屋浜」の埋立によって自然の砂浜が芦屋から失われて20年あまり、「芦屋浜シーサイドタウン」の沖合いにさらに埋立が拡張され、その先端部に砂浜が戻ってきました。人工だしほんの一角だけど…遊泳禁止だけど…。

芦屋浜の南なので「南芦屋浜」と言っていましたが、「潮芦屋(しおあしや)」という愛称でいくことに決めたようです。(ちょっとサビそうな感じではありますが…「南芦屋浜」よりはいいかな?)「陽光町」「海洋町」「南浜町」「涼風町」という新しい町名も、ぐっと海向きなイメージです。(芦屋市の町名には特徴があり、「〜○丁目」という広域町名が一切ないのです。旧市街地も住居表示以前の町名をほぼ引き継いでおり、そんなことも住宅都市としてのイメージを守ることに一役買っているかもしれません。)

1970年代に埋め立てられた芦屋浜地区では「シーサイドタウン」と名乗りながら突端に砂浜は造られず、スパッと定規で引いたような護岸で海と陸は区切られてしまいましたが、時代の雰囲気が変わったのか、最初から埋立は南に拡張する計画だったのか、(兵庫県の人が村上春樹を読んで「改心」したわけでもないでしょうが?)1990年代に造られた潮芦屋では「親水性」をもたせる設計が随所に取り入れられています。

ニュータウンの砂浜版という感じで自然の風情にはかなわないですが、行ったのは真夏でしたから、多くの人が砂浜を楽しんでいました。
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「海を失った防波堤」by村上春樹(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/13 13:53
画像ニュータウンと既成の町の境界には、はっきりしたギャップが生成されることが多くありますが、埋立地のニュータウンでは、それは「旧海岸線」ということになります。

こちらが、昔ながらの「芦屋」(左)と、埋立地である「芦屋浜シーサイドタウン」(右)の境界。昔からの防波堤がそのまま残され、山側は遊歩道になり、海側には道路が設けられました。植栽も、左手は谷崎潤一郎が愛した「松」、右手はニュータウンによく採用される「フウ」と、はっきりした対照が見られます。

1960年代までこの写真の右手は砂浜と海で、1960年ごろ、汚染がひどくなるまでは海水浴場がありました。阪神電車の駅はどこを降りても海水浴場があり、夏は臨時電車が出て人がいっぱい来たと言います。「芦屋浜」はニュータウンではなく砂浜だったのです。

しかしその風景は失われました。村上春樹の「羊をめぐる冒険」には、この海岸線が失われたあとの空虚な感覚が、的確に描かれています(文庫本の上巻のまんなかあたり)。

「山を崩して家を建て、その土を海まで運んで埋めたて、そこにまた家を建てたんだ。そういうのを立派なことだと考えている連中がまだいるんだ」
「しかし僕にいったい何を言うことができるだろう?ここでは既に新しいルールの新しいゲームが始まっているのだ。誰にもそれを止めることなんてできない。」

村上春樹のニュータウン論として興味深い描写ですが、「羊をめぐる冒険」が書かれたのは1981-2年。「新しいゲーム」は、まだ続いているのでしょうか。
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フットパス・カサブランカ風?(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/12 23:58
画像同じスタイルの低層住宅を巧みに組み合わせたタウンハウスの一角で。

住宅地をぬう狭いフットパス(歩行者専用通路)も、オシャレな街灯が効いて、まるで外国の町の一角のようです。フットパスはニュータウンにはよく見られる風景ですが、このように幅を狭めて親しげな路地空間に仕上げているのは、タウンハウスの一角ならではではないでしょうか。法善寺横丁が火事になって再建するときに話題になりましたが、全体をひとつの敷地として敷地内通路の扱いにしないと、このような道幅の道は今の法律では造れないようです。

戦後、「密集した木造住宅街」からの脱出を図って、ニュータウンは広い道路を売り物にしてきましたが、建物の防火性能も上がり、このような変化球が70年代頃から造られるようになりました。それは外国を持ち出すまでもなく、人間のサイズに合った路地の復活であったのかもしれません。
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ご近所とひとつの庭(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/10 23:56
画像タウンハウスの街区の中に入っていくと、どこまでが公道でどこからが私有地なのか、夏の日差しを木立にさえぎられた空間がひっそりと広がっていました。

これがタウンハウスを特徴づけるコモン(共有庭)という空間なのでしょうか。千里ニュータウンでははっきりとこのような設計をとった街区はありませんが、もうすこし時代が下がったニュータウンでは、あちらこちらで見ることができます(おたる望洋台筑波桃花台三田…)。たとえばこのような空間の水やりや緑の手入れは、誰がやることになっているのでしょうか。「共通の空間を持つ」ということは、ご近所関係は没交渉ではいられません。

この町(芦屋浜)はできて約30年ですから、高齢化がひどく進んでいる様子ではないけれど子供の声はあまり聞こえず、落ち着いたたたずまいを見せています。かりに30代後半で住宅取得したとすると、今は60代後半ということになります。

千里ニュータウンではむしろ団地の庭などに、こういった共有庭的な空間を見ることができます。また恵み野のように、敷地構成がコモン的になっていなくても、私有地をオープンにしつらえることで、コモンと同じ効果を生み出している町もあります。

もう少し高齢化や老朽化が進むと、共同建替や手入れの問題が出てくるはずですが(多くのタウンハウスは連棟式で隣と壁を共有しているので個人が勝手に建替はできない)、日本のニュータウンのタウンハウスでは、まだそこまで歴史を重ねた例はあまりないということでしょう。
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タウンハウス芦屋風(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/09 04:11
画像芦屋浜シーサイドタウンでは超高層街区がきわだって有名ですが、中層や低層の区画もあります。なかでも、共有庭を持った連棟式のタウンハウスが多く導入されていることがこの町の特徴です。(普通の戸建分譲住宅もあります。)

こちらは赤い屋根に白い壁、2階建+ロフト風の空間も見えるオシャレな80年代風。似合う曲は小坂明子か松田聖子か…といったところでしょうか。ここは基本分譲のようです。同じタウンハウスでも、筑波の公務員住宅(?)とはずいぶん趣が違います。芦屋浜の中でも、デザインは複数ありました。

芦屋といえば谷崎潤一郎や村上春樹などの文学者もゆかりが深い土地ですが、谷崎潤一郎が生きていてこのタウンハウスを見たらなんと感じたでしょうか?陰影礼讃というより陽光燦々という印象ですが…。
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仮設住宅の跡地には(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/07 02:32
画像超高層住区の周囲には広い空き地があり、戸建住宅の建設が進んでいました。

この一角は、阪神大震災後の数年間、家を失った人たちのための仮設住宅が立ち並んでいました(そのときの様子はこちらのサイトで見られます)。芦屋市では、都市規模がはるかに大きい神戸市などに比べ仮設住宅は早く解消されましたが、以来十数年を経て(たぶんその間は空き地だった?)、恒久的な住宅街に生まれ変わろうとしています。

千里ニュータウンでは「高層の隣には中層、中層の隣には低層」が配置の原則で、高層と低層は直接隣り合わないようにされていますが、ここ芦屋浜では超高層と低層の住宅が直接接する形になり、街区をなじませていく…というよりは、ドラマティックに対比させるような町になっています。

市域が広い隣の神戸市では、仮設住宅が元の居住地からものすごく離れた、全くなじみのない場所にあてがわれてしまった…ということも起きましたが、芦屋市では少なくともタテ3キロ、ヨコ3キロの中で土地の手配が行われました。

仮設住宅の記憶の上に、マイホームの記憶が重ねられていく…。「住宅都市」芦屋の家の物語は続きます。
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華麗なるユニット兄弟(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/09/06 02:54
画像手前の2階建は、工事の臨時事務所か集会所でしょうか。箱を積んだようないわゆるユニット工法…。芦屋浜シーサイドタウンの高層住区では、このユニット工法が大々的に採用されていることも大きな特徴です。手前の2階建と奥の高層住宅は、いわば「ユニット兄弟」。

高度成長期、戦災復興と人口の都市流入によって大量の住宅建設が求められたとき、問題になったのは「職人の不足」でした。伝統的な工法では、とても短期間に安定した品質の住宅を大量に供給できない…こういった要請から、多くの工業化住宅=「プレハブ住宅」が建設されるようになりました。

あらかじめ部材を規格化して工場で生産し、現場に持ってきて組み立て、現場あわせの職人仕事をできるだけ減らす…日本では1960年代から広まった「プレハブ住宅」は、当初は品質も十分なものではなく「仮設小屋」のイメージが強いものでしたが、やがて恒久的な住宅としての品質も向上し、工場で箱にしてしまうユニット工法に発展し、芦屋浜シーサイドタウンが建設された1970年代終わりには、このような巨大な超高層住宅の建設にもユニット化の手法が使われるようにまでなりました。

職人を大量に確保する必要がなく、現場工程が少ないために工事が天候に左右されにくく、工期も短縮できる…ユニット工法はまさに「ニュータウン時代」にぴったりだったのです。

最近の都心の超高層ビルや、千里ニュータウンでの団地建替にも、ユニット工法は広く使われています。むしろそのほうが一般的と言ってもいいぐらいです。

その礎を築いたプレハブ住宅メーカーはなぜか関西に多いのですが、これは関西の合理精神が生んだ光景なのでしょうか。高度成長期の阪神間を舞台にした小説「華麗なる一族」にも、ユニット・ハウスの高層化を進めようとする企業の話が出てきます。
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スキップフロア(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/08/31 01:23
画像未来的イメージを与える…という点では築後30年を経ても斬新さを失わない芦屋浜シーサイドタウンですが、やはり今ならこんな設計はしないのではないか…と時代を感じさせる要素はあります。

その一つが「スキップフロア」と呼ばれる、一部階だけにエレベーターを止める設計。シーサイドタウンでは、7、12、17、22、27と、5階おきにしかエレベーターが止まりません。写真で黒く見えている階です。エレベーター停止階から住戸までは、階段を併用することが前提になっています。このような設計は共用スペースを節約できプライバシー性が保てると言われていますが、バリアフリーが何より重視される現在の考え方では「エレベーターをつけておいて、なぜわざわざ止まらない階を作る?」となるところでしょう。

このアングルで見ると、妻面の無骨なまでのむきだし感が、この建物の大きなアクセントになっていることがわかります。左下の「COMMUNITY CENTER」のレタリングも、70年代後半のテイストがいっぱいです。
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海上都市(芦屋浜シーサイドタウン・1980年9月)

2009/08/29 23:31
画像芦屋浜ができたばかりの頃、撮りに行った写真があったはずだ…と押入れを捜索したら、出てきました!弓なりに続いている甲子園浜からの遠望。夕陽にうかびあがる未来都市のシルエットです。

甲子園浜は阪神間でほぼ唯一残された自然の浜で、あのころ流行り始めたウインドサーフィンが手前の海上に小さく写っています。あのころ一番コンパクトだった110のポケットフィルムで撮っているので画質は粗いですが…。夏が去って訪れる人も少なくなり、うろこ雲をうかべた空だけが人工と自然のコントラストを見おろしている29年前の9月の風がよみがえってきます。

阪神間は好きな場所だし、ニュータウンと万博の風をいっぱいに吸って育った者としては、こういった未来の中に情感を感じさせる景色は、どこか原風景に近いところがあるようです。

甲子園浜は2009年の今も残されていますが沖に阪神高速湾岸線が通り、あいだの西宮浜にも人工島ができたので、今では同じアングルで芦屋浜を見通すことは難しいのではないでしょうか。

季節は同じようにめぐり、人工都市は歳月を重ねていく…29年なんて、あっというまです。
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山から見おろせば(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/08/27 04:45
画像この町は、六甲山から見おろすことを一番に考えて造ったのかもしれません。芦屋川をさかのぼって六甲山系にのぼり、海をふりかえると…谷筋のV字の向こうに、シーサイドタウンはシンボリックに浮かび上がるのです。背景は海。

この写真は1993年に撮ったもので、南芦屋浜は陸地としては見えていますが、まだ何もありません。阪神高速の湾岸線は橋桁としてはできていますが、開通はこの1年後…震災の1年前になる1994年でした。同じときに撮った写真がこちらにもあります。

震災前に9万人近くいた芦屋市の人口のうち、400名あまりの方が震災で亡くなりました。全人口の0.5%近くになります。市内の建物の90%以上が損壊し、市の人口は避難による転出などで1万人以上も減り、回復するのに8年もかかりました。

芦屋浜は埋立地ですから液状化現象が起こり、マンホールの部分だけが飛び出したように浮き上がりました。建物が新しかったため旧市街地のようにぺしゃんこになった建物はありませんでしたが、倒れた家具で亡くなった方もありましたし、建物全体の地盤が傾いた例もありました。超高層住宅では鉄骨が破断した棟もありましたが、これはのちに修復されました。市内の空き地には仮設住宅が立ち並びました。開通してわずか1年の湾岸高速も、西宮浜で橋が落ちました。

震災2年前の、この平和そのものの写真を見ていると、運命はわからないという思いが胸に迫ります。
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海山をみおろす(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/08/26 02:10
画像いくら最高29階建の超高層と言っても、標高931mの六甲山より高いということはないのですが、こんなふうに撮ると六甲山も圧するという印象。

この埋立地ができたために町が海から遠くなってしまった…と嘆く芦屋市民は多くいたようですが、今ではこのさらに海側に埋立地が拡張されたため、建設当時は「海しか見えなかった」最前線の棟の高層階も、こんどは「海が遠くなった…」と言う側に回ってしまいました。

芦屋浜シーサイドタウンの説明はこちらに詳しいですが、巨大なジョイントプロジェクトであったため、管理主体はURもあり県もあり民間もあり…分譲もあれば賃貸もあり…と、外観が同じでもさまざまに分かれているようです。

芦屋で海沿いの最前線といえばさぞ高いのでは…と思われそうですが、(以前僕が芦屋に住んでたころに見た折込チラシでは)そんなこともありませんでした。一番浜手を走る阪神の駅からでもバス便であること、買物などの施設が少ないこと、あまりに未来的な設計思想、無機的な景観は、まあなかなか好き嫌いが分かれるというところもあるようです。

六甲おろしをじかに感じたいトラファンには、またとないロケーションかもしれません。間にさえぎるものがないんですから。
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未来都市1979(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/08/23 23:06
画像芦屋浜シーサイドタウンが1979年に出現した時、皆が度肝を抜かれたのは、最高29階建てという(住宅では当時日本最高の)高さもさることながら、ユニット工法をつきつめた無機質で未来的な景観にありました。

その「思い切り方」は、「高級住宅地の浜にあんな屏風を建てて眺望を塞いで!」「人間はそんな高い場所に暮らせるのか?」と多くの論議を巻き起こしましたが、一般人から見れば「アッケにとられた」という感覚が一番近かったかもしれません。高度成長期は終わっていましたが、まだ皆ゆるやかに未来は信じていたし、たしかに「未来都市って、こんな感じかもしれないなあ…」という感じはしたのです。

この町ができてから、六甲山はおろか遠く北摂の丘の上からも、「ああ、あそこが芦屋だな…」とはっきりわかるようになり、ランドマーク性は抜群でした。

大阪から見ると、西陽の中に立つシルエットは不思議な情感をたたえ、今の「コンビナート萌え」に近いものがあったかもしれません。

ガスが使えないオール電化、地域冷暖房、真空ゴミ収集システム、スキップ階に設けられた空中遊園など、外観だけでなく、設備面もまさに「未来都市」でした。

日本がバブルに転がり落ちていく1980年代が始まる1年前のことでした。
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海のニュータウン(芦屋浜シーサイドタウン)

2009/08/22 23:51
画像
長かった梅雨が明けたと思ったら、もうツクツクボウシが鳴いていますが…せめて海のニュータウンでも歩いてみましょう。

お盆の空気がきれいな日を選んで、阪神間にある芦屋浜シーサイドタウンを歩いてきました。ニュータウンには千里や多摩のような「丘のニュータウン」と別に、「海のニュータウン」とも言える埋立地の一連のニュータウンがありますが、ここ芦屋浜もそのひとつ。ここから西へ、六甲アイランド、ポートアイランド…の順で並んでいます。

人口150万の神戸市の東隣にあって、芦屋市はわずか人口9万。市域は東西に3km、南北に9km(しかも中北部は六甲山で平地は3km)程度しかない小さな市ですが、日本では「富裕層が多く住む住宅都市」として有名です。南欧の小国モナコのイメージがだぶるのは僕だけでしょうか?震災前、僕が住んでいたころに使っていたスローガンが「小さな大都市」。関西の市町村は個性派ぞろいですが、住宅地としての「芦屋」のブランド力は際立っています。

…とは言っても実は庶民派の区画もあり、また一般に言われるように「山手が高級、浜手が庶民的」というほど単純でもありません。山手には山手の良さ、浜手には浜手の良さがあり、明るくて、誰にとっても住みやすい「ざっくばらんな町」…というのが僕が感じる芦屋の個性です。(首都圏では葉山・鎌倉あたりのプロフィールが近いと言えるでしょう。)

出典を思い出せないのですが、高度成長期直前、芦屋市の人口は約6万人。しかし都市経営は規模が小さすぎても大きすぎても効率が悪く、10万人程度がコミュニティとして最適の規模である…という理論にのっとり、既成市街地の山側に2万人、浜側に2万人人口を増やそう…という長期計画があったとか。

芦屋そのものはニュータウンではありませんが、市が人口増に関する明快なポリシーを持っていたとすると、その計画は非常にニュータウン的ではありませんか。

高度成長期に泳げなくなった芦屋浜を埋め立て、1979年にオープンしたのが芦屋浜シーサイドタウンです。現在はそのさらに沖を埋め立て、南芦屋浜(潮芦屋)と呼ばれる町が生まれています。この写真は芦屋浜から南芦屋浜に渡る浜風大橋の上から。背後は六甲山。中央の超高層住宅群は、完成当時、未来的な設計と、日本で一番高さの高い住宅として話題を呼びました。埋立地と言えば=工業地帯が常識だった時代に、芦屋市域だけは埋立地も全て住宅地に使ったのは、やはり「芦屋だから」でしょうか。

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